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アップロード、ヒトミさんの場合(14)

「この町に友達はいるの?」


 ヒトミさんは裁判所を出て、区役所へ向かった。区役所は、夫婦で住んでいた町から離れたところにあったけれど、夫に遭遇する恐れがないとは言い切れない土地で、ヒトミさんは透明人間になりたいと思いながら足早に歩く。 
 一刻も早く、この土地を過去のものにしたいという思いに囚われているヒトミさんは、区役所で、夫に知られないよう転出したいと申し出た。
 市民課の若い女性職員は馴れているのか、「これを持って、新しい住所のある役所で、その旨を伝えてください」と転出届を渡してくれ、「それから警察へも届けてくださいね」と言い、ヒトミさんの新しい住所の最寄りの警察署の場所を調べて教えてくれた。

 区役所を出たヒトミさんは、急いで地下鉄に飛び乗り、電車を乗り換え、あらかじめ調べておいた静かな海辺の町を管轄する市役所へ行き、転出届を提出した。手続きの際に、事情を話し、住所を秘匿したい旨を伝えると、少し待つように言われ、何の担当者なのかわからないけれど、以前警察署に勤めていたという年配の女性が現れて、ヒトミさんの状況を事細かに聞いてきた。
 
 三十分ほど、さっき調停で話したことを繰り返していたら、その女性は、さっきの調停委員より親身になってくれて、部下のような若い男性を呼び、ヒトミさんの住所を秘匿する手続きを取るよう指示した。

「これで安心よ、大変だったわね」
「この町でやり直すといいわ、介護の資格なんか取ると生きていけるわよ」
 その女性は、ヒトミさんの人生設計まで考えてくれて、ヒトミさんに笑顔を向けてくれる。

「ねえ、この町に友達はいるの?」
 唐突にそう聞かれ、いえ、いませんとヒトミさんが答えると、「じゃあ、私がこの町での最初の友達ね」「何かあったらすぐに電話してね」と言う。そしてにっこり微笑んで、女性はヒトミさんに名刺を差し出した。
 ヒトミさんは呆気にとられ、言葉も見つからないまま、はあ、と言い、市民生活相談員と書かれた肩書の名刺を受け取り、そのままの流れで女性が差し出した右手を握り、住民票をもらったあと、警察署へ向かった。
 
 免許証の住所変更をする際に、住所の秘匿をしていると言うと、また待たされてから別室へ通され、もうまるで芝居のセリフを繰り返すようにいまの状況を女性の警察官に話しながら、ヒトミさんは本当に芝居のように思われるんじゃないかと余計な心配をしていた。
 警察署で、何かあったときにはすぐに助けが来てくれるという手続きを取って、やっと帰途につく。外はすっかり日が暮れていた。

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 シェアハウスでゆっくりとお風呂に入り、遅い夕食の支度をしていると、マチコさんがただいまあと帰って来て、「どうでしたか?」と聞いてくれる。
「うん、恐ろしく疲れる一日だったけど、なんか私、友達が出来たらしい」。ヒトミさんがそう言うと、マチコさんは訳を聞く前にコロコロと笑って、経緯を話すとますます笑ってくれたので、調停委員への不信感も、長引きそうな調停への不安もとりあえず流せた。

 市役所や警察署で聞き及んだことがあって、最悪の場合はシェルターがあるらしく、夫の暴力から逃げる女性たちのため、もしくは逆の場合、さらには同性婚の場合にも適用されて、逃げる人を匿う施設がどんなところなのかヒトミさんには想像がつかなかったけれど、世の中にはまだまだ知らないことがたくさんあるのだと思い、自分はまだ最悪の事態ではないのだと、人の不幸と比べて救われている自分が哀しかった。
 
 その夜は風が強く、不穏な海鳴りがヒトミさんの入眠を妨げ、取りあえず行政に守られたとはいえ、いつか夫に居場所を突き止められてしまうのではないかという恐怖心は消えなかった。
 
 海鳴りは心の内に渦巻く不安と共鳴し、海上の荒れが、心の荒れにつながりませんようにと願いながら、少しカビ臭い布団にくるまって、せめて優しい夢を見れますようにと祈りながらうとうとする。しかし身体の疲れより脳の疲れが勝っているのか、なかなか眠りは訪れず、ヒトミさんは睡眠薬がほしかった。
 
 そこでふと、東京の家を出てから安定剤も睡眠薬も飲んでいないことにヒトミさんは気づく。これはすごいことではないかと思いながら、眠っているのか眠っていないのかわからないまま、明け始めた空の気配を感じ、そのうちマチコさんが起き出した音にホッとして、一人じゃないと安心したところに、やっと深い眠りがやって来た。

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 年末の海は少し荒れている。岩場に打ちつける波は、小さい子どもがぐずっているように、ばしんばしんと不機嫌そうな音を立てている。ヒトミさんは、奈良時代のセーターとジーンズとコートを着込み、昼間なのに薄暗い海辺を歩いている。

 波しぶきの混じる冷たい風は、しんしんと冬の香りを運んでくる。厚手のコートは重たかったけれど、気分の重さをコートのせいに出来るメリットがあった。
 少し右手に歩くと、きれいな砂浜があるのはわかっていたけれど、ヒトミさんはいまは岩場に惹かれている。湿った空気が磯の匂いを倍増させてくれるので、鼻孔に染みる香りが、脳みそのどこかを刺激して、ヒトミさんは故郷の海にいるような錯覚を覚えて少し落ち着く。

 海は干潮だったから、引いた波がごつごつとした岩をあちこちに突出させていて、何だかサスペンスドラマの最後のシーンに入り込んだようだとヒトミさんは思う。これが本当に最後の場面ならいいのにと思う。何もかも解決したあと、エンディングでは登場人物たちの愉快な日常が、エンドロールと共に映し出される。何もかも必ずいつかは解決する。ヒトミさんはいま、渦中のシーンにいるだけだ。
 
 吹きすさぶ海風に、身体の芯まで凍らされ、ヒトミさんは震えながらシェアハウスへ帰る。そのまま二階の部屋へ行き、現実の世界と繋がっているスマホで弁護士を探す。法テラスで、無料相談は三回まで出来るようだったけれど、急ぎたいヒトミさんにとって、法テラスの制度を使える弁護士事務所を探す方が早くて確実なように思われた。三度の相談をしている時間が惜しかった。
 
 ヒトミさんは長い時間をかけて、この町の近辺の弁護士事務所をネットで調べ、それぞれの弁護士たちの自己紹介文を集中して読み、写真を凝視し、優しそうな、読書好きの男性弁護士を選んだ。
 
 集中していた勢いでそのまま弁護士事務所に電話してみると、電話に出た女性の感じがとても良くて、年明けに一度相談に行くことを決める。それからやっと安堵して、大きなお風呂にゆっくりと浸かり、お気に入りの窓から複雑な模様を描く夕焼けの空を眺め、ヒトミさんは深呼吸をする。

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 師走の日々を、ヒトミさんは静かに過ごした。夜にうっかり寝そびれて、朝焼けの海をベランダから眺めたり、散歩しながら砂浜で石ころを拾ったり、新鮮な魚を売る店を見つけたり、かっこいい流木を杖にして歩いているおじいさんと挨拶を交わすようになったり、柴犬と散歩しているおばあさんを見つめていたり、まるで素敵な隠遁生活をしているようなふりをしていたけれど、今後の暮らしについては不安しかなかったし、心がぎゅうっと縮こまってゆく不気味な音さえ聴こえてくる。誰かに魂を握り潰されたり、逃げ惑って暗闇に追い込まれるという恐ろしい夢を見ることもある。

 沖を走る釣り船の、快適そうなエンジン音に、なぜかヒトミさんは救われる。カモメとカラスとスズメの声は、ヒトミさんの涙を誘う。要するに、ヒトミさんは情緒不安定なのであり、夜と週末にしか会えないマチコさんの存在がなければ、足元に広がる底無し沼に落ちていたかもしれない。

 マチコさんは裁縫が趣味で、週末はチクチク、広いリビングで縫いぐるみを作ったり、ポーチを作ったりしている。その光景をのんびり眺めていると、ヒトミさんの心は安らいだ。


 
文章 日向寺美玖
装画 アトリエ藻っくん

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