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アップロード、ヒトミさんの場合(1)


だから西へ逃げようとしたのかもしれない

 

 大事なのは何を持っているかではなく、何を持っていないかだったのだ。良心を持ち合わせていない人と暮らして、ヒトミさんの人生は崩壊してしまった。
 島の温泉の有線放送から、ダパンプの音楽が流れてくる。といってもそれはヒトミさんがそう思っただけで、あるいはその流行歌の声が女性だったら、アイコって人の歌なんだろうと思ってしまうくらいの感じで、ヒトミさんの音楽の知識はそこら辺で止まっている。
 
 台風のあとの島には、心地よい東風が吹いていて、島の温泉の、ただ屋根が無いというだけの石造りの露天風呂で、せっかくの波の音を打ち消してしまう有線放送の音量に参っていたヒトミさんは、五年くらい前ならもっとのんびり浸かっていたであろう気持ちの良い湯から上がる。
 五年、いや、三年? 心の底から笑うことが出来ていたのはいったいいつのことだったかしら? ヒトミさんは身体を拭きながら、かしら、という東京の言葉を、独り言や考え事の中で使うようになっている自分が可笑しかった。東京で暮らして二十年以上。すっかり都会に染まっている。
 
 もう両親共に他界していて頼れる人の少ないヒトミさんであったが、最後の砦のような島の叔父さんのもとへ身を寄せたのは、良心を持ち合わせていなかった夫から逃げ出して一年後、もう気力が奮い立たなくなった頃合いだった。
 
 逃げ出した当初、ヒトミさんは横浜の友人の家に身を寄せた。ある日、どうしても外出先から家に戻れなくなったヒトミさんは、着の身着のまま、家へ帰るのとは逆方向の電車に乗って西へ下った。電車の中からそっと友人に連絡すると、どんなに急いでもあと五時間くらいは仕事をしないと帰れないけれど待ってて、絶対待ってて、どっかで必ず待っててと、友人は力強く何度も言ってくれた。
 ヒトミさんはとりあえず、友人の家のある駅で降り、そういえば近くに温泉センターがあることを思い出し、もう一度電車に乗ってあと二駅西へ下り、都会の若い人たちで賑わうお風呂で時間を潰していた。
 
 いま島の温泉で、あのときのことを思い返すと、よくぞ逃げたと自分を褒めたくなる。鏡に映る自分の姿を眺めながら、ヒトミさんは、「よくぞ逃げました」と声に出して言った。

 鏡に映るヒトミさんは中年で、いやもしかしたらもう高年に近いのかもしれない。子どもがいなかったから逃げられたのかもしれない、否、子どもがいたらもっと早く逃げていたかもしれないと思いながら、いやいや、結婚したのはとうに四十歳を過ぎていたのだから子どもがいるはずないじゃんと、心の中でもじゃんなんて使ってしまう自分が可笑しかった。

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   ヒトミさんは九州の出身である。だから西へ逃げようとしたのかもしれない。あるいは、ふと電車の中で聞いた旅行者のような女の子たちの九州弁にホッとして、彼女たちの帰るところへ付いて行きたいと思ったせいかもしれない。
 横浜の友人が帰宅するまでの間、ヒトミさんは温泉センターでふやけるほど湯に浸かっていたが、身体の芯まで温まりはせず、ヒトミさんの強張った心は、深まりつつある秋の気配に脅えていた。

 湯に浸かったり、休憩室で寝転んだり、サウナに入ったりして、ようやっと五時間を使い切ったヒトミさんが、友人の家のある駅へ戻ったのは二十二時。商店街の入口にスタバを見つけ、そこで友人を待つことにした。十月初旬の火曜日の夜、薄いハーフのトレンチコートだけでは寒かった。

 ヒトミさんは、湯冷めすることを承知しながら、夜風の吹きすさぶテラス席で待つ。駅を降りた友人からすぐに見つけてもらえなければ、この逃亡劇が成立しないような気がして、暖かい店内で待つことは憚られた。
 熱々だったチャイラテが半分ほど無くなったとき、友人のミコちゃんが急ぎ足でスタバへやって来た。いつも笑顔のミコちゃんが、何かを決意したような真剣な表情を見せていたので、ヒトミさんの瞳には、彼女の姿がヒーローのように映った。
「荷物は?」
「ない」
 それだけの会話でミコちゃんは全てを察した。ミコちゃんは、ヒトミさんの飲みかけのチャイラテを持ち上げて残量を確認し、ヒトミさんの手に持たせてから、チャイラテを持ったヒトミさんという荷物を抱えるように店を出て、引っ越したばかりだからまだ片付いてないよという部屋へ持ち帰ってくれた。
 
 ミコちゃんの新しい一LDKのマンションの部屋は、かすかにペンキの匂いがした。リビングには、まだ開けられていない段ボールが積まれていて、その隙間に、目の醒めるような青いソファが置いてある。ヒトミさんはそれに惹きつけられ、崩れ落ちるようにそこに腰を降ろした。その様子を見ていたミコちゃんは、大きな冷蔵庫からビールを取り出して、とりあえずお疲れと、ヒトミさんがまだ手に握り締めていたチャイラテと交換してくれた。  

 普段の付き合いの中で、ヒトミさんは特に愚痴を言っていたわけではなかったけれど、察しのいいミコちゃんは、何かあったらいつでもウチに来てといつも言ってくれていて、その何かがついに起こっていまその好意に頼っている。
「この町で知り合った子がね、こないだ裁判で離婚したばっかりだから、会ってみる?」
 そう言いながらミコちゃんは、もう携帯電話の画面でその子の連絡先を探している。
「うん」
 ヒトミさんが小さく頷くと、ミコちゃんはその子へ早速ラインを送った。
「明日なら来れるって、いい?」
 ミコちゃんはヒトミさんの瞳を見て了解を取り、明日の夜に会合をセッティングしてくれた。
 それからミコちゃんは、ヒトミさん用に新しいシーツを用意し、洗濯したてのパジャマを渡してくれ、どこかのホテルから持ち帰った歯ブラシがあるはずと、段ボールの中から探し出し、ついでに高級そうな化粧品類の使い方を教えてくれる。そして、しばらくといわず、ずっとここに居ていいからねと言って、部屋の合鍵を渡してくれた。

「本はここだから」
 ミコちゃんは、まだ開封していない段ボールの一つを指差す。
「ああ、東京から引っ越しててよかったよ、ヒトミさんのために引っ越したのかもねえ」
 そう言って笑うミコちゃんは、元々はヒトミさんがアルバイトをしていたレストランの常連さんだった。同じ九州出身ということもあり、気が合って仲良くなってから、ヒトミさんはいつも、ミコちゃんの笑顔は素敵だなあと思っていたが、今夜のミコちゃんの笑顔はとびきり優しくて、この笑顔を一生忘れないような気がすると思った。
 
 本来ならミコちゃんが眠るはずの部屋で、ヒトミさんはゆっくりと眠った。眠れるはずはないだろうと思っていたけれど、ミコちゃんの寝室が、とてもシックな隠れ家風に設えてあったから、安心して眠りに就いた。この数年、睡眠薬を服用してもなかなか眠れなかったのだけれど、その夜の入眠は速やかだった。

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    夜型のミコちゃんが、リビングの青いソファベッドでまだ眠っている朝、ヒトミさんはベッドの中で携帯電話の電源をオンにする。眩しい画面が浮かび上がると、画面には、夫からの着信履歴が何十件も残っていて、ヒトミさんは恐怖を覚える。
 昨日、しばらく友人のところに泊りますと夫にラインを入れたあと、ひっきりなしに鳴る電話と怒鳴りつけるような文面のラインが息つく暇なく届き、耐え切れずに電源をオフにしたのだが、途中、ミコちゃんからの連絡を確認するため電源を入れるたび、ヒトミさんの携帯電話は鳴り続けていた。携帯電話で繋がっている世界が怖かった。携帯電話を捨ててしまいたい衝動に駆られたが、友人たちと繋がる唯一のツールなのだからと耐えた。
 
 電源をまたオフにして、ミコちゃんを起こさないようキッチンへ行き、何でも食べて何でも飲んでねと言ってくれたミコちゃんの大きな冷蔵庫を開け、野菜や卵を取り出し、オムレツとサラダを作り、パンを焼いてコーヒーを淹れる。トースターがチンと鳴った音で目を覚ましたミコちゃんが、おはようと爽やかな笑顔で起きて来て、「わあい、朝ごはんが出来てる」と大喜びしてくれた。
 
 二人で遅い朝ごはんを食べながら、オムレツの中に入れたチーズの溶け具合の好みについて語ったり、サラダのドレッシングに使ったオリーブオイルの入手先について語ったり、理想的な朝ごはんの風景に、ヒトミさんの心は和らいだ。
 
 今日は休みだという介護の仕事をしているミコちゃんと、ゆっくり一緒に段ボールを開けて片付けをし、軽く掃除をしてから買い物に出かけた。ヒトミさんはとにかく着替えの衣類さえ持っていなかったので、駅ビルのユニクロで下着や長袖のシャツや部屋着やパジャマを買い、ドラッグストアで歯ブラシや化粧水を買った。
 
 ミコちゃんの提案で、今夜は鍋にしようということになり、スーパーで食材を買ってから、近所の公園へ寄り道をしつつ家へ戻り、ミコちゃんの新しい友人が仕事帰りに来てくれるのを待った。

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文章 日向寺美玖
装画 アトリエ藻っくん


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