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アップロード、ヒトミさんの場合(5)

何とかなりますよ
 

 不動産屋の店内には、すごく若い茶色い髪の女の子がいて、一人で留守番をしているのか、ちょっと物憂げな風情で、そして何かを期待するような目でヒトミさんを見て、気になる物件がありましたらご案内出来ますよと言う。
 天気もいいし、もしかしたら女の子も退屈しているのかもしれないと思って、あの、これ、とヒトミさんがガラスの内側に貼られた物件を指差してみると、あ、須磨の物件ですね、少し遠いですけど、お時間ありますか? と女の子は勢いよく立ち上がった。
 
 ヒトミさんは、かいつまんでいまの状況を話したのだけれど、女の子は、何とかなりますよと底向けに明るい声で言い、退屈していると口に出して言いはしなかったけれど、明らかに外に出たい雰囲気満々だったので、結局、女の子の運転する車で、三宮から須磨までドライブ。女の子はなかなかの運転技術で、ヒトミさんに観光案内までしてくれる。

「あの横断歩道の先のラーメン屋は美味しいですよ」
「この辺りはデートスポットで水族館のイルカショーがいいんですよ」
「夏になるとすっごいお洒落な海の家が出来るんですよ」
 元気いっぱいに楽しそうに話し続ける女の子をバックミラー越しに見ながら、こんな娘がいたらなあとヒトミさんは思っていた。

「夜になると、橋がライトアップされて綺麗なんですよ」
 女の子が案内してくれた高台にある団地の部屋からは、明石海峡大橋が見渡せた。その先に、タマネギの美味しい淡路島がある。
 古い公団住宅をリノベーションしたという部屋は素敵だったけれど、ここで一人で暮らすのは無理だろうとヒトミさんは思った。淋しくて心許なくて、気が狂ってしまいそうな気がした。最も、現実的に借りることは不可能だったし、ヒトミさんにとって、いまは現実を見つめることすら難しいのだから、新しい暮らしのビジョンを描くのは至難の技だった。
 
 女の子は、他にも二件、物件の鍵を持って来ていて、快活な女の子の後ろをついて回って物件を見ているという状況は、ただ楽しかった。快適な車に乗っているだけで嬉しかったヒトミさんは、車窓から神戸の街を眺め、女の子とのお喋りを楽しんだ。
 冷やかしで全然いいんですよ言ってくれた女の子に甘え、彼女の三時間ほどを拝借して、ヒトミさんはすっかり元気になった。不動産屋に戻ってから、一応これだけ書いてもらっていいですかと女の子に言われ、内見申込書に住所と電話番号と名前を書き込むと、ヒトミさんは現実を思い出してしまったが、すぐに忘れる努力をした。

オレンジ〇

 伯母の家へ帰ると、「気分転換出来たか?」と従妹が言った。従妹はいま就職活動中で、今日も一件面接に行って来たところだった。この年だと難しいなあと言いながらも、従妹は楽しそうに見える。
 ヒトミさんは、就職活動をしている従妹が羨ましかった。いつかは働かなくてはいけないのは必須だけれど、いまは何も出来ない。住所不定無職のヒトミさんは、いまは彷徨い続けることしか出来ない。

 なぜ故郷に帰らないのか、それはもう誰もいないから。ヒトミさんはこの問答を何度も心の中で繰り返している。母が亡くなってから父は家を売り、そのお金でホームに入った。ヒトミさんの両親は、自分たちが死んだあとのために、近くのお寺の納骨堂に二人分のスペースを買っていたので、ヒトミさんの両親のお骨はそこにある。
 二人の位牌は、ヒトミさんがもう入れない東京の家の中にある。早く救いに行かなければと焦る気持ちもあるが、恐怖心が渦巻いて、すべきことの順番がわからない。
 
 東京の裁判所で調停があるので、また横浜の友人の家にお世話になるしかないのかなあとヒトミさんが従妹と話していたとき、熱心に新聞の折り込みチラシを見ていた伯母が、「奈良もええでえ」と言った。
 その瞬間、ヒトミさんの脳裡に、奈良の空き家を持て余している幼馴染みの顔が浮かんだ。もう時々しか会うことのない幼馴染みが、生まれてからしばらく住んでいた奈良の家を両親から相続したのだけれど、千葉へ嫁いでしまっている身では、時折子どもを連れて遊びに行く程度でしか使っていないと言っていたことを思い出したのだ。あの家はどうしたのだろう。もう処分してしまっただろうか。
 
 もう長いこと会っていなかったけれど、ふと、ヒトミさんは幼馴染みに連絡してみた。ラインにはすぐに既読がついて、いまスペインにいると返事があった。子どもたちも大人になり、夢だったスペインに留学中とのことだった。
 そんな人生もあるのかとヒトミさんは感嘆しながら、期待はせずに、「奈良の家はまだある?」と聞いてみた。すると、「あるよ、空き家のまま」と返事がくる。ヒトミさんが勇気を出して、「しばらく借りられる?」と聞くと、「いいよ」と二つ返事。「いつから?」と聞かれたので、「出来ればすぐ」と言うと、「ちょっと待ってて」としばらく間が開き、「いまお隣さんに連絡したから、友達が行きますって話したからいつでも大丈夫だよ」と、まるで日本に居るかのような素早さで段取りをつけてくれた。否、日本に居たってこんなに簡単に物事は進んだりしない。

「家の鍵はね、台所の窓を開けたとこにあるテーブルのフライパンの下にあるから」
「窓には鍵がかかってないからそこから手を入れて取って」
「多分部屋は散らかってるけど」
 幼馴染みからのラインは連投で、何かのスイッチが入ったような流れの中、そのやり取りを横で見ていた従妹は、すごいなあ、そんなこともあるんやなあと言い、ヒトミさんは流されるまま、明日から奈良へ行くわと伯母に告げる。すると、まだ折り込みチラシを見ていた伯母は、ハテナ顔をして、「なんや紅葉を見に行くんか?」と聞いた。

 従妹と二人で笑いながらヒトミさんが経緯を説明すると、なんで奈良やねんと言うので、おばちゃんが奈良もええでって言ったからと言うと、「へ? ワタシ、そんなこと言うたか?」と言う。
 従妹が、誰かに言わされたんやなと笑い、とにかくヒトミさんには目的地が出来たので、もう風邪も治ったような気になっている。
 
 伯母が見ていたのは旅行会社のバスツアーのチラシで、大阪から日帰りで行ける観光地がたくさん掲載されていた。ヒトミさんは、チラシの中の美しい紅葉の奈良のお寺の写真をしみじみと見て、それから幼馴染みに聞いた奈良の空き家の住所をグーグルマップで検索すると、空き家の所在地は、その写真のお寺の近くであることがわかり、従妹と一緒に「おおおっ」と喜んだ。

 その家が、近鉄奈良駅から徒歩圏内であることも確認し、従妹に近鉄奈良駅までの行き方を教えてもらい、何だかまだよくわかっていない伯母と一緒に晩ごはんの支度をしながら、まだしばらくウチにおってもいいんよと言う伯母に、上手な酢の物の作り方を習う。
 酢はええやつを使うんやで、安いのはあかん、ええ調味料を使うと、大抵の料理は格が上がんねんと伯母は言う。そこですかさず従妹が、質のええ人間とばっかり付き合いたいわなあと言う。

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 翌日の午後、仕事の面接に向かう従妹に車で駅まで送ってもらい、ヒトミさんはまた旅を始める。去り際に車の窓を開けた従妹が、「ファイトや、頑張りい!」と手を振ってくれて、ヒトミさんも大きく手を振り返す。
 なんば駅から近鉄に乗り換えると、四十分で奈良へ着いた。気合いを入れて旅立ったので、あまりに近かった奈良に、ちょっとだけ拍子抜けしてしまったヒトミさんである。
 
 駅前の道路は渋滞していて、奈良はそんなに都会だったのかとヒトミさんが驚いていると、何と、鹿による渋滞だった。たくさんの鹿がのんびりと大通りを歩いているせいで、車が渋滞していたのだ。
 ミコちゃんに借りたキャリーケースと、伯母と従妹がくれた笑顔と勇気を持って、ヒトミさんは長い駅前の横断歩道を渡り切る。グーグルマップを見ながら奈良の家へと向かう。
 奈良の町は、動物園の匂いと古びた建物の匂いがする。京都と似ているようでいて、京都のように洗練されてはいなくて、でもとてもいい感じ。
 初めて奈良へ降り立ったヒトミさんは、もうすでに奈良が好きになっていた。



文章 日向寺美玖
装画 アトリエ藻っくん

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