マクルーハンはメディア・アートを予見したか
未発表 2011年8月
*2011年、マーシャル・マクルーハンの生誕100周年にちなんで特集された某書籍のために依頼された原稿だったが、1日まにあわずに不掲載の憂き目にあった。写真は、文中で言及されている、エキソニモのインスタレーション、《SUPERNATURAL》(撮影:木奥恵三)で、ICCの展覧会「みえないちから」(2011)の出品作品でした。
マクルーハンは60年代には電子メディアの革命的な性質にいち早く着目し、ニュー・メディアとしてのテレビの時代のヴィジョンを提示し、時代の寵児として迎えられた。電子メディアの登場によって、わたしたちの意識や認識に大きな変化がおとずれるということを予見的に語る理論は、賛否両論を巻き起こしつつ、そしていつか忘れられた。しかし、当時には具体的に把握しきれなかった数々の見解は、90年代に入りインターネットの時代をへて、現在の電子書籍の時代にまで、長きに渡ってその先見性や影響について言及されるにいたっている。そして、そのことが、現在になってマクルーハンをして「予言者」たらしめる理由ともなっているのだろう。
マクルーハンの予言は、現在のインターネットの時代の到来によって、ようやく再認識できるようになったとでもいうように90年代に入ってふたたび脚光を浴びるようになった。わたしたちは時代に先んじすぎて理解が得られなかったものやことなどを「早すぎた」と言ってしまうが、未来とはバックミラーに映った過去であるとするマクルーハンの考え通りに、かつての理論が、ようやく見えるようになってきたということでもあるだろう。それは、マクルーハンの言説が実現されるのに時間がかかってしまったからなのか。俗に言う「マクルーハン旋風」なるものが吹き荒れたあと、すぐに忘れられてしまったという事実は、当時のテクノロジー・アートの隆盛と停滞に符合を見いだすことができる。
60年代の後半は、テクノロジー・アートが日本でも大きく取り上げられた時代でもある。それはもちろん70年の大阪万博へ向けての助走でもあった。しかし、その大政翼賛的な性質をもつ国家的一大イヴェントには、多くの批判も寄せられた。万博後には、参加への自己批判や総括が求められ、また、万博が掲げた「人類の進歩と調和」という未来礼賛とも言えるテーマに対する疑いがあらわれ始め、どこか暗雲がたれ込めてきた、そういう時代でもあった。
万博以降、日本のテクノロジー・アートは、それと入れ違うようにしてたとえば、「もの派」のような自然の、あるいは作られたままの素材を使用するなど、非テクノロジー志向の傾向を持つ動向にとって代わられる。そこから美術における電子テクノロジーの導入にふたたびスポットがあたるのは、70年代後半になってからのヴィデオ・アートの隆盛を待たなければならない。
電子メディアがもたらす社会、文化の変容という問題は、同時代の芸術にも大きな影響を与えている。マクルーハンによれば、かつて「新しいメディアによって引き起こされる変化を知覚するのは、いつも芸術家」であった。軍事技術を頂点として開発されるテクノロジーとは、より実用的に機能するものである。それを芸術表現に用いることで、より精神や創造性のために奉仕しようと考えたのが、AT&Tのベル電話研究所のエンジニア、ビリー・クルーヴァーを中心として、ロバート・ラウシェンバーグなどのアーティストによって結成されたE.A.T.(Experiments in Art and Technology)であった。そこには新しいテクノロジーをよりよい使用法を芸術家との恊働によって生み出そうという考えがあった。
メディアこそがメッセージでありうる、ということは現在のメディア・アート、メディア芸術をめぐる問題を理解する意味でも重要なポイントとなるだろう。スーザン・ソンタグが主張したことも、スタイルこそがメッセージになりうるということだった。それは、現代にいたるメディア・アートの発展史とも重なると言えるものだが、それに先駆けて放送や録音といった手段による表現をもって、まさにそのスタイルとメディアとによって何かを伝えようとした。
ナムジュン・パイクは、ヴィデオ・アートのパイオニアとして、電子メディアを駆使した作品を制作し続けた。1973年に制作されたパイクの《グローバル・グルーヴ》は、シングル・チャンネルのヴィデオ作品である。単一の画面で構成され、ヴィデオ・テープの編集によって制作されたものであるが、パイクのヴィデオ作品の特徴ともいえる、めまぐるしく変化する、電子的効果による極彩色の画面がすでに確立されている。それは、後年の多数のTVモニターによって構成されたインスタレーションとして展開されるパイクのヴィデオ・アートとコンセプトとしては同様のものであり、たとえば、以降の《グッドモーニング・ミスター・オーウェル》(1984)や《バイ・バイ・キップリング》(1986)などの衛星を使用した、同時多元中継によるプロジェクトまで一貫したものでもある。
「TVガイドはマンハッタンの電話帳とおなじくらい分厚くなるだろう」
これは、《グローバル・グルーヴ》の冒頭に宣言される象徴的な言葉である。「地球村(グローバル・ヴィレッジ)」を想起させるそのタイトルもさることながら、この作品はパイクなりに「未来のテレビ」像を予想したものになっている。30分弱の作品だが、冒頭のダンスに始まり、アレン・ギンズバーグやシャーロット・モーマンや自身のパフォーマンス、ジョン・ケージの小咄、韓国の伝統音楽などがカットアップ的にあらわれ、ご丁寧にCMまで入って、さらには視聴者がナレーションの指示に従って目を閉じたり開いたりして見「参加TV」(その中には、パイクのヴィデオ・アートの嚆矢とされている強力な磁石によってテレビの画面を歪めてしまう《マグネティックTV》の手法を用いて、マクルーハンの顔を歪めてみせた《檻に入れられたマクルーハン》もしっかりと登場する)など、パイクのこれまでと、そしてこれからも繰り返し使用される素材がコラージュ的に、入れ替わり立ち替わりあらわれるような構成になっている。多数のチャンネルがザッピングされているような印象だが、放送の多チャンネル化を予見し、まさにそのイメージのみを提示したものともいえる。たとえ、そのめまぐるしく切り替わる情報過多的な映像の奔流が、テレビ時代の批評たりえているという部分がなくはないにしても、パイクは一貫してメディアの可能性を後押しし、テレビ局とともにそれを成し遂げた。パイクは技術者と協同でヴィデオ・シンセサイザーなどの映像装置を制作し、さらには前述した大規模な同時多元中継プロジェクトや情報スーパーハイウェイ構想にもとづく作品の制作が構想されていた。このような、電子メディア以降の芸術家像というべきものを端的に表わしていたのがパイクだったといえるだろう。それが、現在にいたるパイクをヴィデオのみならず、メディア・アートの祖とする所以でもある。
「すべてのメディアは人間のいずれかの能力の延長である」
1968年にニューヨークのMOMAで開催された展覧会『マシーン—機械時代の終わりに』は、マクルーハンが、自動車が足という身体機能の拡張であったのに対して、電子回路は中枢神経系の延長である、といったこととも符合している。機械の時代から電子の時代へ、というテクノロジーの時代の転換期をテクノロジー・アートにおける過渡期と重ねあわせてみせたこの展覧会は、現在にいたるメディア・アートのパースペクティヴにおいても重要なメルクマールになる展覧会である。マクルーハンが電子メディアを「認識、相互作用、対話」をうながすものであると言ったように、たとえば、80年代の後半にコンピュータ・テクノロジーの発展を背景にインタラクティヴ・アートなどの参加型、体験型と言われるような、観客との相互作用によって作品が成立する形式が登場する。
1969年に宮川淳は、現代テクノロジーの変質を「機械をテクノロジーのシンボルの座から追放しつつある」とし、電子テクノロジーの到来を「《芸術とテクノロジー》の問題に新しい様相を生み出す」ものととらえている。また、「芸術における《つくる》という概念が有用性や生産力、さらには進歩としての《機械》と同時代的であったように、《見る》ことのクローズ・アップとテクノロジーそのものの変質とは同時代的なのである」と述べている。それは、それまで芸術というものを支えていたとされる手仕事が、テクノロジーによって代替されるといったことが危惧されていた時代をよくあらわすものだが、それらを「手」から「目」へ、「作る」ことから「見る」ことへの転換であるとする。
一方、粉川哲夫は1987年というヴィデオ・アートの隆盛に伴うテクノロジー・アートの再来の時代に際して、電子テクノロジーを「手の領域を復権させるところがある」と述べ、「テクネー」と「アルス」というアートの語源であり、かつするそれが分離されてきた歴史をもつ両者が、電子テクノロジーの出現によって「テクノ・アート」という命名自体に象徴されるように、「目」と「手」を再会させるものであるとしている。たしかに、現在のメディア・アートでは、テクノロジーを使う,ということ自体が「手仕事」の領域とも言える状況にある。また、必ずしも機械と電子という性質よってのみ分類されるものではない。ハッキングやベンディングといった手法は、既存のテクノロジーをどのようにして芸術に転用可能かという問題意識を持っていたE.A.T.の時代からの変わらぬスタンスであったともいえるが、それがアーティストによって実現されるのが特徴だろうか。
日本のメディア・アーティスト、エキソニモ(千房けん輔と赤岩やえによるユニット exonemo.com)は、作品《SUPERNATURAL》(2009)を超能力によって制作されたものだと言う。この作品は、極単純に説明するなら、それぞれ離れた場所に置かれた、ふたつに切断されたスプーンが、ネット空間において再統合されるというものである。ネット空間でふたたび本来の姿を取り戻したスプーンは、どこか超現実主義の絵画のようでもあり、たしかにそのスプーンは実体としては存在し得ず、ネット空間に生み出され、そこでしか存在できない。スプーンをきれいに切断するには道具が必要であるし、それをウェブカメラで撮影し、動画共有サイトから配信し、ふたつの部分をひとつの画面に統合するのは電子テクノロジーを必要とする。どちらも人間の能力を超えたものであるという意味で「超能力」である。
マクルーハンの言う「メカ好き」とは、拡張された自分自身に魅せられてしまうものの謂いだが、「いかなる発明あるいは技術も、われわれの身体を拡張ないし自己切断したものである」というように、この作品では、能力の拡張としての超能力(技術)が、切断されたスプーンを情報ネットワークを通じて再統合してみせることによって表わされているのかもしれない。
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