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母性を読んで

昔、盲導犬協会を見学したことがある。

盲導犬候補犬は生まれてから10カ月程度、一般家庭で育てられる。

パピーウォーカーと呼ばれるもの。

この時期、人間からたっぷりの愛情を注がれることで、盲導犬としてその生涯にわたって人間を愛し、仕えることができるそうだ。

パピーウォーカーとなった家族は預かりものである盲導犬候補犬を「愛能う限り、大切に育てる」わけである。

やがて、盲導犬として選ばれた犬たちのうち、盲導犬として生きる道を選択した犬たちが盲導犬となるのだ。

実は、私は犬が苦手だ。子供のころ、かくれんぼをしていて近所の犬にかまれたことがある。

嫌、それだけではない。大切に育てられているであろう犬の得意気な様子が嫌いなのだ。心底、自分が人間から嫌われるはずがない、全ての人間は自分を好きなのだ。だって、わたし、かわいいでしょ?と言いたげな目で私を見てくる。その都度、私は犬に対して底知れない劣等感を抱く。

私は自分をかわいいと思ったこともないし、誰からも好かれるなどとんでもない発想で、むしろ誰からも好かれないに違いないと日々思って生きている。

なぜ、私がそう思うのか?

それは、可能な限り私の記憶を遡っても、これまでの人生で親から愛されていると感じたことがないからかもしれない。

湊かなえという小説家はどのような人なのだろう。

私の経験、思いの全てがこの本の中にある。

ただ、頭をなでてほしい。それだけでいいのだ。

人生の折り返し地点を過ぎた私がそれを切望するのはおかしなことだろう。でも、私の望みはただそれだけなのかもしれない。

今でもたまたま隣にいただけの男の人が髪をかき上げる仕草をしたなら、私は思わず身構えてしまう。

私にとって大人の男の人が「手を上げる」という行為は、慣用句そのものなのだ。

もし、父が手を上げたその次の行為が私の頭を優しくなでることに繋がっていたなら、犬に劣等感を抱くような人間になっていなかったかもしれない。

子どもは親を選んで生まれてくることはできない。と多くの人はいう。

でも、私は違うと思う。私がこの両親を、この家族を選んで生まれてきたのだ。だから、私は私の両親の愛を受けるに値する人間になるために今でも努力している。

親の命と自分の命とどちらが大切かと聞かれたら、きっと親の命だろう。なぜなら、まだ、私は愛されていないから。私がいてよかったと思ってもらってからでないと死なれては困る。

「母性」に描かれた家族は由緒正しく、裕福な家であるのに対し、私の家は極貧だ。それでも、この本一冊まるごとが私に重なる。

ただ、私と重ならないのは「愛能う限り、大切に育てられた」とされる娘には、自分を受け入れてくれる彼氏と出会い、結婚し、子を授かるという素晴らしい人生が用意されていた。

涙が出た。よかった。本当によかった。

清佳さん、おめでとう。私は本当に嬉しい。

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