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子どもたちの可能性について考えてみた

2022年になってもうすでに1ヶ月半が過ぎてしまいました。子どもたちは、そろそろ次のステップに向けて色々と考え始める時期になっています。もちろん、保護者の方もそうだと思います。ここで、改めて思ったことがあったのでちょっと書いてみようと思います。

■そもそもなんで?

ここにしっかり立ち返って考えてみることが大切だなって思うんです。なんで高校に行くのか、なんで大学に行くのか、なんで専門学校へ行くのか、なんで就職するのか。それは人によって異なります。子どもたちは自分の人生なのでちゃんと理由があるんです。でも、それを受け止めてもらえない子どもたちの声がどれだけ苦しいか想像できますか?

「この方があなたのためになる」
「大学に行っておけば将来就職で困らない」
「親の言うことに間違いないから聞いておけばいい」

こんな呪縛のような言葉を子どもたちに投げかけていませんか?こんなに実態のわからない言葉に従えと言われても子どもたちが納得できるわけがない。私も子供の頃にこれらの言葉に苦しんできた一人です。親に従った結果、途中までは親の望む人生をそこそこ歩いてきたと思います。でも、ずっと持っていた違和感から抜け出して自分を見つめることができるようになったのが40歳を過ぎてからでした。そこからの日々は、ワクワクする気持ちともっと早くこうしておけばよかったという後悔でいっぱいです。色々な意味で失敗を経験するためには年齢が若い方が絶対にいいんです。そのためにはやってみたいことに挑戦できる場所に行かせてあげることが親のやってあげられることだと私は思います。

■誰もやってないことはやっちゃダメ?

「この大学へ行ってこれを学びたい」
「自分の先の道にはこの大学に行く必要がある」

自分の意思を持って決めた進路なら挑戦することに意味があります。でも、誰かに決められたものやなんとなくで決めてしまった進路は、いつか必ず後悔する時がきます。もちろん、気づいた瞬間からやり直しができるのが人生なのですが、それを認めない”自分以外の何者か達”が厄介です。

また、「今は何をしたらいいかわからないからとりあえず一度社会に出てから必要なことややりたいことを見つけて必要があれば大学に入る。」という、年齢至上主義の日本の教育制度から離れた考え方をすると一気に叩かれてしまいます。

「何歳になったからこれをする」

これに一体どれだけの意味があるんだろう。子どもたち一人一人の成長速度はそれぞれに異なっているのだから一斉に同じ行動をしなくたっていいんだよっていう選択肢があったっていい。そしてこちらにも当然のように”自分以外の何者か達”がいて、あーでもないこーでもないと言ってくる。周りの人と比べて一喜一憂するのって子ども本人ではなくて、その周りの人たち。では、当の子どもはって言うと、周りとの比較に意味がないことを知っているんです。そこじゃないよ、って思っている。そんなことじゃなくて、自分はこうなりたい、これが好きなんだよって、だからこれを学んでいきたいんだよ!だったり、これをやっていきたいんだよ!だったり、ちゃんと意思を持っている。この気持ちを潰してまで歩ませたい道って、なんですか?

■挑戦をチラ見する

やってごらん!って言ってあげられない保護者達って「お金は払わないから」とか「自分のことなんだから全部自分でなんとかしなさい」って急に言い出す。やれないと思っているからそうやって一番子ども達が弱い部分で言うことを聞かせようとする。こんなにずるい方法、まさか使っていないですよね?どうして子ども達の挑戦に「とりあえずやってごらん」って言ってあげられないんだろう。やってみてダメだったらヘルプがくるし、ヘルプ出せそうになくて苦しんでいたらちょっと手を貸してあげることができる、それが親の特権。そのためにも親がしてあげられるのは”チラ見”だと思っています。「見守る」って言う言葉、これはちょっと重いですね。守らなくていいんです、子ども達は自分たちで失敗の中から学んでいくから。そして、失敗したっていいんだよって言い続けてあげてほしい。間違えることが怖くて動けなくなっている子ども達、自分のやりたいことや好きなことをやる勇気が出なくなっています。大人たちが生きたことのない世界を、子どもたちは生きていくんです。私たちが経験したことのない世界を生きていく子どもたちに、私たちが教えられることなんてないんですよ、本当は。それよりも、一緒に同じものを見たり感じたりしながら、一人の人間として対話を重ねていくことが子どもを育てること。大人の皆さん、新しい考え方に変えてみませんか。そうすると、間違いなく親子の関係はグッと近くなります。


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