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安美錦のことば

Cover Photo by Jr Korpa on Unsplash

渡邊十絲子さんの「今を生きるための現代詩」という本を先日読了しました。その中で紹介されている詩はどれも刺激的で、わけがわからなくて、(いろんな意味で)読みにくいものでした。これらの詩について何か書けそうな気はまったくしないので、書きません。

ところで本の最後のほうに、大相撲の安美錦関のことばが引用されていました。中継のインタビュアーが、作戦をどのように考えるのかについて尋ねたところ、安美錦関の答えはこんなふうだったそうです。

 作戦は自分では考えません。すべて付け人に考えさせます。自分で考えると、この前あの相手にこうやって勝ったとか、こういう技があの相手には効くんだとか、勝った記憶にどうしてもとらわれてしまう。そうすると考えが硬直するし、「自分が自分が」になってしまって、いい相撲をとれない。だからなにも考えず、付け人の考えた作戦をきいて、自分はただそれを実行にうつすだけです。

渡邊十絲子.今を生きるための現代詩(講談社現代新書)(p.147).講談社.Kindle版.

私は読みながらすぐさまこの箇所にマーカーを引きました。安美錦関のことばが、いろんな意味を示唆してくれているように感じたのです。

たとえば、確証バイアスの例として読むことができます。あの時はあの力士にこういう作戦で勝った。同じような作戦で別の力士にも勝ったことがある。などなど、自分が思いついた作戦はいい作戦であるという確証となる記憶だけを参照してしまい、同じ作戦で負けた記憶や、別の作戦で勝った記憶が呼び出されなくなってしまう。結果、十分に作戦を考えることができない。

「岡目八目」という古い言い回しが生きている場面の例として読むことができます。「岡目八目」はもともと囲碁に関する言い回しで、囲碁の対局を傍で見ていると、もっといい手があるのに、とか、あの手はまずかったな、とか、まるで自分が八目強くなったかのように錯覚することがある。というような意味でした。そこから、第三者は案外冷静な判断を下すことができることがある、ような意味にも解釈できます。もっとも、将棋の中継を見ていると、「やっぱり対局者が一番読んでいる」という解説者のコメントもよく聴くので、いつも「岡目八目」とは限りません。

著者の渡邊氏は、これについて「力士がまだ神の声を聴く回路をうしなってはいない証拠」だと見ています。なるほど、面白い見方です。

これを書いているのは2024年1月2日、今日も多くの方が神社に初詣に出かけるのでしょうか。初詣の様子を伝える報道で、必ずと言っていいほど画面に映るのは、木の枝などに結ばれた「御御籤」です。
「おみくじ」と仮名で書くとあまり感じませんが、漢字にすると「御御籤」または「御神籤」になるのですね。仰々しい。
それはおいといて、今見ておきたいのは、この漢字表記の最後の字は「籤」、つまり「くじ」です。あみだくじの「くじ」です。もし神社に巨大なあみだくじがあって、選んだところからあみだを辿っていって、「大吉」とか「小吉」とか出る、それだって「くじ」ですよね。おみくじはもうちょっとそれらしい(何がそれらしいかよくわかりませんが)仕組みで「大吉」とか「小吉」とかを出していますが、基本は同じです。もっと言うなら「ガチャ」と同じです。

でも、私は「だから御神籤なんてばかばかしいことはしないんだよ!」と冷笑したいわけではありません。逆です。
未来なんてどうせわからないのです。御神籤に書かれていることが当たるかどうかなんて、わからない。御神籤で「大吉」が出るか「小吉」が出るか、はたまた「凶」が出るかは、要するに「運」です。あるいは「確率的な事象」です。そういう、自分の意志とは無関係に生じる事柄になかには、自分が気づいていない考えが含まれている可能性が高いのではないか。

そして、自分の意志とは無関係に提示された言葉について、その意味をあれこれと考え、家族や友人と共有して、またあれこれと言葉を交わす。その過程で、もしかしたらこういうことかもしれない、と新たな気付きを得ることがあるかもしれません。
安美錦関にとって、付け人の考えた作戦は、自分の意志とは無関係に表出されるものです。付け人は、力士よりも番付がかなり下で、相撲の経験も少なく、技術的にも未熟であることは明白です。その声は、「素人考え」として排除されそうな声かも知れないのです。しかし、安美錦関はそれを自分の作戦として採用しているといいます。
付け人はなぜそのような作戦を選んだのだろう、なぜその作戦がいいと判断したのだろう。それを話し合うのか、あるいは自分で考えるのか、はたまた何もしないのか、それはわかりませんが、自分の意志とは無関係に生じる事柄になかには、自分が気づいていない考えが含まれている可能性が高いことを、安美錦関が(意図しているかどうかは別として)信じているからこそ、できることなのだと思います。そして、このような思考過程を指して、渡邊は「神の声を聴く回路」が残っていると言ったのではないか。私はそんなことを考えました。

この本を読むきっかけになった Voicy はこちら。