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構成主義という考え方

Cover Photo by Ian Schneider on Unsplash

荒木博之氏の「独学の地図」を最近読了した。荒木氏の主張する「ラーニングパレット」の構成にはまだ当分たどり着けそうにないのですが(仕事をしていない現状、たどり着けるものかどうかよくわからないけれど)、たいそう刺激的な内容でした。以下、一部を引用しつつ、書きますが、書かれていることとはまったく違う地点に着地しそうな予感がしております。

「独学の地図」の最後の方に、次の引用があります。引用元の書籍も買っていて、途中まで読んでいて、読んでいた部分に含まれていたことに今さっき気づきました。ということで、引用元の書籍から引用します。(ややこしい話が申し訳ないです)

こういう考え方を構成主義(constructivism)と言う。相手からの情報、その記憶が知識となるためには、それらの素材を用いて知識として構成していかなければならないのだ。構成するのはもちろんあなただ。あなたのこれまでの経験は人と異なるだろうし、これから出会いそうな場面も異なるだろうから、構成される知識は人によって少しずつ異なってくる。より多くの関連した知識と結びつきを作ったり、その知識がカバーする事柄をたくさん経験した人が構成する知識は、単にクイズのように覚えた人のそれとはまったく異なったものとなる。難しい言葉で言えば、知識というものは「属人的」なものなのだ。

鈴木宏昭.私たちはどう学んでいるのか ――創発から見る認知の変化(ちくまプリマー新書)(p.37).筑摩書房.Kindle版.

私は放送大学に10年ほど在籍し、そこで学んでおられる大人の皆さんともいくらか話したことがあります。多くの人からお聞きしたのは、新しい知識が自分の経験や既有知識とつながってくることが面白い、という感想で、私も同じことを思っていました。若い頃はこういう面白さに気づかなかった、という感覚も、いくらか共有したように思います。

このような感覚は、鈴木氏の言う「構成主義」の考え方で説明できると思います。要するに、知識を受け取る我々の「認識枠組み」のほうがかわったのです。新しい知識と関連づくような体験も、その他の分野の知識も、10代後半や20代前半のころに比べれば、40代、50代のほうが多いに決まっています。それだけ長く人生を歩んできたのですから。知識を構成する主体が、さまざまな意味で成長している、だからこそ、学習することの魅力も、楽しさも、さまざまな面から感じることができる。そういうことなんだろうと思います。
こんな楽しい経験を、していない時期があったなんて!
就職してひたすら目の前の仕事のことだけ考えていた時期を思い返してそう思ったりしますが、それもまた、現在仕事をしていないという環境の影響をうけたバイアスにまみれているのだろうと思います。その時はその時で、仕事をこなすことに必死だった。そういう思いで働いている方はたくさんいらっしゃると思います。ですから、「どうして学ばないの?」などと責めることはできません。自分だってそうだったのです。

ところで、この箇所に思い切りマーカーを引いた後で、私はこんなことを感じていました。たぶん、何か別の本や、別の音声配信に触発されたのだろうと思いますが、それが何だったのか、もう思い出せません。でも、感じたことは覚えています。これです。

私は、自分が興味のあることに関連することだけ、自分の既有知識で解釈できることだけ、既有知識と関連づけ可能な部分にだけ、選択的に「面白さ」を感じているのではないだろうか。
言葉を変えて言うと、新しいことを学びたいなどとは全く思っていなくて、「ああ、このことは知っている」「ああ、これはあの考え方で解釈できる」みたいな部分にだけ興味関心をもって読書しているのではないだろうか。
それって、ようするに「確証バイアス」を地で行く行動であって、学びとは縁遠い活動になっているのではないだろうか。

これだって、格好つけているだけかもしれませんね。
でも、と思い直したのは、いままでほとんど気になっていなかった分野にだって、自分は興味を持てるかもしれない。それって、自分の可能性を信じる、という、格好いい言葉で表せることなんじゃないだろうか。「可能性を信じる」とか、手垢のついた言い方は好きじゃないけど。

もっと自由に、もっと直観をたよって、生きて行きたいなあと、このごろ思うのです。

ご紹介した書籍はこちら。

結局、「独学の地図」についてほとんど紹介していません。ごめんなさい。

読みかけだったことが判明しました。続きを読もうと思います。

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