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居場所…実はそれは「かりそめ」のもの

20年前の居場所

数年前の話です。

学生時代、毎日のように一緒に過ごしたいわゆるサークル仲間が、それこそ約20年振りに集まりました。

会う前は、みんな変わっちゃったかな、よそよそしくなっちゃったかな、といろいろ心配しました。

しかしそんな心配は再開してすぐに吹き飛んでしまいました。

まずみんな見た目が変わっていない。いや、きっと年相応に経年劣化しているんだろうけども(笑)、わたしから見れば雰囲気のみならず姿かたちも変わっていませんでした。

それからもう一つ、これは不思議なんですが、20年振りの再会にもかかわらず、20年前と何一つ変わらない掛け合いの会話が繰り広げられました。

もう自然とその当時のままの雰囲気になったわけです。

よく「役割」と言いますが、本来の自分とはきっと違うんだけど、このケースではこういう役割を担う、というものですね。

それぞれが自然と20年前にタイムスリップしたかのように、当時の役割を自然と演じていたわけです。

時間が経つにつれて、あ、そうそう、この人こういうことつぶやくんだった、とか、変なタイミングで乗ってくる人だったとか、いろいろ思い出しながら…。

今思うと、この再会は奇跡だったんじゃないかと思うくらいですが、同時に思ったことは「そこに自分の居場所があった」ということです。

居場所がない!

ところでこの「居場所」はどのくらい重要なものなのでしょうか?

職場や家庭に自分の居場所がない、と嘆いている人がきっと多くいらっしゃいます。

しかし、特に職場に関しては、少なくとも誰もが役割を演じています。

上司の役割の人、部下の役割の人、あるいは営業マン、管理部門などなど。

役割というのは、組織を円滑に回すため、あるいは人の役に立つための「手段」の一つに過ぎません。

しかも本来の自分とは違うその場限りの役でもあります。

ですからそれは、かりそめのものとも言えます。

したがって、職場での自分の居場所はかりそめのものです。

「居場所がない」と感じてしまうのは、その役割が馴染めない、とか、向いていない、など、心地よさがないからなのだと思っています。

居場所を求めるよりも重要なこと

所詮、人はなんらかの役割を演じている生き物です。

その役割が与えられたものであれ、自ら勝ち取ったものであれ、です。

与えられた役割がキツいものであればその居場所も居心地が悪いでしょうし、自ら勝ち取ったものであれば気持ちいいでしょう。

自ら勝ち取った役割なんて、なかなかないですけどね…。

ともかく、居場所というのはそういう役割の上に成り立っているものだと考えます。

ですから、居場所なんてものも大した意味がないといえばないわけです。

居場所があるなし以前に、すでに自分はここにある、ということ自体をもっと意識した方がよいかもしれません。

だって、役割なんだから誰かが代役を務めようと思えばできてしまうのですから。

役割を選ぶ、そして演じきる

イヤな役割を与えられ、その改善の兆しと方向性が見出されればちょっと我慢をし、その見込みがなければ辞退するかその役割に固執しない、それでいいのです。

役割に過ぎないのですから、自分の尊厳の問題ではありません。

ただし役割を決めるのは自分以外にありません。

俳優さんと同じように、この役はやらない、その役ならやる、そんな感じで。

そして一度決めたのならむしろその役割を自分が果たすんだ、代役はいないのだ、と意気に感じて演じる方が大切です。

居場所は一つではない

20年前のあのメンバーの中での自分の役割は、当時心地良かったかといえば決してそうではなかったものです。

当時のわたしの世界はそこにしかありませんでしたので、だんだんと馴染み、心地良さを感じるようになっていました。

それが20年後もそのまま再現されたことで、あのときの居場所はここにあったんだ!と思い知らされたわけです。

だからといってその時の役割をほかの職場や家庭で同じように演じているわけではありません。

その時々で役割は違うからです。

居場所というのはただその組織での役割を演じる場に過ぎず、しかも一つではないのだと思います。

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