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サムライ瞑想 No004

すみません。諸事情で、4回目の公開が遅れてしまいました。
今回は
第一章 サムライの死生観と瞑想
 第一節 儒教を基礎とした死生観
  第一項 死の捉えかた
です。
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第一章 サムライの死生観と瞑想

サムライの生き方は、死の捉え方を基盤にして、構築されている。これを死生観という。もともと戦士として生まれてきたサムライは、戦闘が殆どない中世(江戸時代)においても、自分の命を懸けることに意味を見いだし、死と対峙するための準備を行なった。
この準備のために、サムライは身体鍛錬と瞑想をおこなうことを常としていたのだ。

第一節 儒教を基礎とした死生観

サムライの死生観をよく表した慣用句として、
   “人は一代、名は末代” [慣用句1]
というのがあり、これと同じ意味の慣用句として、
   “命より名を惜しむ” [慣用句2]
がある。
仏教とともにサムライにとって親しみのあった儒教の観念(教え)からこの慣用句を検討して、サムライの死生観を検討してみる。

第一項 死の捉えかた

一般にはサムライの死の捉え方は、仏教と密接なかかわりがあったとされている。
仏教には、“前世”、“現世”、“来世”、の観念があり、“輪廻転生”の教えとなっている。魂は、現世から来世へと明快を往還して何度も生まれ変わる。魂が滅びなければ,“命”に執着することに意味はないのだ。
ブッダは、人生には四苦八苦が存在し、人間存在そのものが苦であるとしている。輪廻転生による生まれ変わりは苦しみの連鎖が永遠に続くことを意味しているのだ。そして、この苦しみの連鎖から解放されるには、悟りにより輪廻転生しなくてよい“仏の世界”へ移り住むしかないと、ブッダは言っている。残念なことに、このような究極の悟りを啓くことは簡単ではない。そして仏教では、命どころか“名誉”さえも執着することに意味はないという。これは慣用句1&2の名誉を貴ぶサムライの死生観とは相いれない。
ちなみに仏教では、人が死ぬことを“成仏”または“往生”するという。“成仏”は、人が死んで“仏になる”こと、往生”は“住みかえる”ことを意味する。つまりこの言葉はともに、生まれ変わることのない仏の世界へ移り住むことを示している。
サムライは、倫理教育の一環として“儒教”の書を音読していた。宗教を、魂の救済を目的として死および死後のことを説明したものとするならば、儒教は、倫理の教えとして捉えるだけでなく、十分に宗教と呼ぶことができる。
儒教の世界観は中国のものであり、ここで人の魂(たましい)には、“魂(こん)”と“魄(はく)”があるとされる。人が死ぬと、魂は天に昇り、魄は地に潜る。そして、子孫が先祖を祀る儀式を行えば、天と地から魂と魄がそれぞれ戻ってきて一体となり、再生するという考え方である。これを“招魂再生”という。
儒教での死の捉え方である“招魂再生”は、仏教の”輪廻転生“と以下のような相違がある。仏教では、究極の悟りを啓くのは難しいので人は何もしなくても”輪廻転生“により何回でも再生する。しかし儒教では、人が再生するには生きている子孫による儀式が必要不可欠となっている。

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今回は、初めての各論です。
次回は
第一章 サムライの死生観と瞑想 第一節 儒教を基礎とした死生観
  第二項 命より大切なモノ と 第三項 名誉と恥の文化 
を予定しています。

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                            雄乃三毛猫


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