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なんとなく生きてる自分は死んでいる。【雑記】

私、最近何してんだろう。
そうふと思うたびに不安になり、自己嫌悪に陥る。

そのような負の感情に襲われるようになったのは大学3年生のときくらいからだ。
その時期、のうのうと特に何をするでもなくただ大学に行き、バイトに行き、寝る、毎日同じことの繰り返し――というわけではなかった。

NPO法人に関わって合宿運営、チームビルディングの毎日。ライティングの仕事をしながら、人と会わない日がないほど毎日人と向き合い、自分と向き合いの苦しくも楽しい日々であった。

充実しているはずの毎日なのに、「私、最近何してんだろう」と思うのである。
充実しているはずの毎日なのに、負の感情が湧き上がるのである。

なんとなく、目の前のことをこなす毎日を生きている。
なんとなく、イメージしていた充足感を味わって、やった感じを得て、満足する。

それが自分には至極気持ち悪くて、毒に感じられたのだ。

別に薄っぺらなことをしていたわけではないし、そのときそのときもがきながら、自分の「苦しむも本望」を体現しながら向き合っていた。だから、その体験も生活もある一定の充足感を得られていた。

だが、そのなんとなくの充足感ある生活に、私の大切にしたい「書く」ことは置いてけぼりになっていた。
縋っていたい「書く」ことが、アスファルトの隙間から咲く気づかれもしない野花のように雑に自分の中であしらわれていた。
だから、気持ち悪くて仕方がなかったのだ。

不意に立ち止まってそのことに気づくたびに自分の軽薄さに辟易した。

毎日、楽しい。
それはとてもいいことだ。
しかし、誰かが語るありそうな楽しい毎日は、同時に自分を静かに蝕んでいる。

小説を書こうとペンを取っても、狂ったように書けない。登場人物の顔が出てこない、動いてくれない。
時間を忘れて書くことができない。

その状況が怖かった。
それと同時に「なんとなく楽しい毎日」は私が生きたい人生じゃないんだと人生20数年の小娘でありながらも、すとんと腑に落ちたのである。

毎日、頑張って生きている。
今日も一日頑張ったと自分を褒めて眠りにつく。

でも、それは目の前のことを頑張っただけであって、自分の夢に対して頑張ったわけではない。
夢に近づけない自分が、情けなさに見て見ぬふりして、あたかも私はやってますよ感を自分に提示して安心したい、その頑張りなのである。

取ってつけたような充足感。
自分の中の一部の自分がその充足感に唾を吐くわけである。
「私は満足しないからな」とモスキート音のような警告音を仕留めるまで眠れない夜のように嫌にしつこく鳴らしているのである。

自分が描きたい人生の自分は屍のようにどろどろの地面に突っ伏している。
なんとなく生きている泥人形が、それっぽく体を動かしている。

いつか、ぼろが出る。
その泥人形が、あたかも真の自分だと思って生き始めるとふとしたときに何もかもが分からなくなる。

「私は何がしたいんだっけ?」と辺りのぶるぶる震えながら見渡すのである。
でも、屍は何も答えてくれないのだ。
泥人形は毎日不安になりながら、なんとなく自分の意義をつくって満足しようとする。でも、「物語を書く」ことに触れなければ、きっと、今みたいにずっと繰り返すのだろう。

心が折れかけて、ならせめて書く仕事をしようとライティングや編集の仕事をしても、胸の奥で隙間風が吹いている。
書くだけでは、満足できていないことにそろそろ嫌になりながらも気づいている自分がいる。

そう、もう答えは出ているのだ。
気づいちゃっているのだ。
解決策だって、分かっているのだ。

「自分の書きたい物語を書く」
ただそれだけなのだ。

そうすれば、私にとって「なんとなく生きている」は終わるし、突っ伏している屍と泥人形が入れ替わって、それはそれはしぶといリビングデッドが爆誕するはずである。

ライティングも編集もイベント企画も。
今している全ての活動を否定はしない。
ただ、そこに何よりも一番大切にしてほしい「自分の書きたい物語を書く」ことを加えてほしいのである。
それができて、やっと私は、毎日を死んでるように生きていると思わずに深呼吸できるのではないだろうか。

自分の核を思い出して、自分の核で苦しむ人生に。

そんな、なんとなく生きてるなと思って、頭の中を整理しようと思った夕方。

スターバックスのキャラメルマキアートで、ラーメンズのネタを思い出して、今日はキーボードから膝の上へと手を下す。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました! 自分の記録やこんなことがあったかもしれない物語をこれからもどんどん紡いでいきます。 サポートも嬉しいですが、アナタの「スキ」が励みになります:)