リープフロッグしたアイルランド/野口悠紀雄
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※本連載は第14回です。最初から読む方はこちら。
◆アイルランドは、日本を飛び越えて先に行ってしまった
現代において顕著なリープフロッグをした国は、中国だけではありません。
アイルランドもそうです。
アイルランドはかつてヨーロッパの最貧国でしたが、リープフロッグによって主要国を飛び越え、いまではアメリカより豊かな国になっています。
アイルランドの急激な経済発展は、日本ではあまり知られていません。また、人口が500万人に満たない小さな国であるため、重要な問題ではないと考えられるかもしれません。
しかし、新しい経済発展の典型例という意味で、現代の世界で注目すべき重要な現象です。
下の図は、日本とイギリスとアイルランドの一人当たりGDPの推移を、1980年から現在に至るまでの期間について示したものです。
図表1 一人当たりGDPの推移(単位:ドル) 資料:IMF
まず日本とアイルランドを比較してみましょう。
1980年においてアイルランドの一人当たりGDPは6250ドルで、日本9466ドルの66%でしかありませんでした。1986年から1995年の間、アイルランドの一人当たりGDPは、日本の半分以下だったのです(1990年を除く)。
この頃日本でアイルランドの経済に注目していた人は、ほとんどいなかったでしょう。「ヨーロッパのどこか端っこにある島国」という程度の認識しか持っていない人が多かったのではないでしょうか?
ところが、1990年代の後半から、アイルランドの一人当たりGDPは急速に増大しました。2002年には、日本に追いついてほぼ同額となったのです。そして、日本を追い抜いていきました。リーマンショック後に一時減少しましたが、その後再び成長し、日本との格差は拡大しています。
とりわけ、日本でアベノミクスが行われるようになってからの格差拡大が顕著です。
2018年では約7万8335ドルであり、日本の3万9304ドルの約2倍の水準になっています。
つまり、アイルランドは、リープフロッグして日本を飛び越え、先に行ってしまったということになります。
これは何かの間違いではないか、と考える人がいるかもしれません。
確かに、「30年前には日本の半分の豊かさでしかなかった国が、いまや2倍の豊かさ」というのは、信じられないことです。しかし、これは、決して統計データの見誤りではありません。現実の世界に起きた驚天動地の出来事なのです。
◆アイルランドは、かつての支配国であるイギリスをも飛び越えた
1980年代頃までのアイルランドが貧しい国だったのは、イギリスの支配下にあり、農業経済から脱却できず、発展が遅れたためです。
そこで、イギリスとの関係がどうなっているかを見ておきましょう。
1980年においては、アイルランドの一人当たりGDPは、イギリスの約58%でした。ところが2001年にイギリスを抜き、それ以降、差は拡大しています。
2018年においては、4万2580ドルであるイギリスの1.84倍になっています。つまりアイルランドはイギリスをも飛び越えたわけです。
図表2 一人当たりGDP(2018年) 資料:IMF
それだけではありません。図表2に示すように、2018年のアイルランドの一人当たりGDPは、ドイツに比べても1.6倍です。
「ヨーロッパで経済パフォーマンスがもっとも良好なのはドイツ」と思っている人は、是非、認識を改めてください。
さらに驚くのは、アメリカに比べても1.2倍になっていることです。
このことは、日本ではほとんど知られていません。
アイルランドは、イギリスを飛び越え日本を飛び越えただけでなく、世界の主要国を軒並飛び越えてしまったのです。
なぜこのようなことが起こったのでしょうか?
それは、技術と経済活動の大きな変化があったからです。
◆かつては貧しく、「ヨーロッパの病人」だったアイルランド
1980年代まで、アイルランドはヨーロッパでもっとも貧しい国であり、「ヨーロッパの病人」と呼ばれていました。
アイルランドの小作人は、イングランドの地主に搾取され、貧困にあえいでいました。
しかも自然条件もあまりよくなく、収穫できるものと言えば、ジャガイモ程度しかありませんでした。
1840年代には、そのジャガイモもダメになり、大飢饉がアイルランドを襲いました。これが有名な「ジャガイモ飢饉」です。
100万人以上が餓死し、骨と皮だけの人が死体と共に生活するという地獄の世界が現出しました。アイルランドの人びとは、それから逃れるために、恋人や家族と別れて海を渡ったのです。
現在のアイルランドの人口は492万人ほどですが、ジャガイモ飢饉の前にはその倍近くでした。世界中に散った移民の子孫は、7000万人以上と言われます。移民の多くはアメリカに渡りました。「アイリッシュ・アメリカン」と呼ばれるアメリカのアイルランド移民の子孫は、4000万人を超します。
20世紀になっても、80年代までのアイルランドは、失業率が17%前後で消費者物価上昇率は2ケタという、スタグフレーションに苦しみました。
◆アメリカに渡ったアイルランド移民の物語
故国を捨てて、移民としてアメリカに渡ったアイルランド人は、そこで底辺の生活を余儀なくされました。
「私はアイルランド出身です」と言うのは、「私は貧乏です」と言うのと同義になってしまったのです。
やがて、規律正しく真面目に働くというアイリッシュ・アメリカンの性格が評価されて、警官や消防士の職につく人が増えました。
さらには、映画界に進出し、成功した人が輩出しました。
アメリカの映画産業では、アイリッシュ・アメリカンが一大勢力を作っています。実力だけで出世できるからでしょう。俳優にも監督にも、有名な人が大勢います。
このため、アイルランド移民のことを描いた映画が、アメリカ映画にはたくさんあります。
アイルランド移民の苦難に満ちた歴史がなければ、映画「黒水仙」や「静かなる男」の物語は成立しません。
映画「黒水仙」では、デボラ・カー演じる主人公が、「私はデニス・ケリーというアイルランドの小さな町の生まれ。恋人は夢を追い、私を置いてアメリカに行ってしまった。だから私は僧院に入った」と告白する場面があります。
この映画は1946年のものですが、「ジャガイモ飢饉」から100年経ったこの頃でも、恋人や家族を残して極貧のアイルランドを脱出するのは、ごく普通のことだったのです。
「静かなる男」の主人公は、アメリカでボクサーとして成功したものの、事故をおこしてアイルランドの故郷に傷心の帰国をします。
典型的なアイリッシュ・アメリカンというのは、映画「大空港」で、機中でダイナマイト自殺をするゲレロという名の男です。
あるいは、「ミリオンダラー・ベイビー」の主人公マギーです。 女性でさえボクサーにならざるをえなかったのです。
マーガレット・ミッチェルの小説を映画化した「風と共に去りぬ」で描かれた南部プランテーションの持ち主は、アイルランド移民の中で例外中の例外です。
この作品に登場するのは、バトラー、ケネディ、オハラ、ハミルトンなど、聞いただけでアイルランド系と分かる人物ばかりです(俳優も、リー、デ・ハビランドなど)。「タラ」というのは、アイルランドの聖地名です。
南部に王国を築いたものの、南北戦争になって再びすべてを失ったしまったという物語です。
◆イエイツの妖精はどこに行った?
アイルランドの詩人W.B.イエイツは、『ケルト妖精物語』(ちくま文庫、1986年)の序文で、「ジェイムズ王の時代になると、イギリスの妖精たちは皆いなくなってしまった。しかし、アイルランドには生き残っていて、心優しい者たちに恩恵をいえている」と書いています。
なぜ生き残ったかと言えば、アイルランドはイギリスの圧政下で産業革命を実現できず、農業国のままにとどまったからです。
イエイツの詩The Lake Isle of Innisfree(「イニスフリー湖島」)には、「湖畔に泥と枝で小屋を建て、豆のあぜと蜜蜂の巣箱を作る」、「そこで私は少しばかりの平和をうる。なぜなら、平穏はゆっくりと降りて来るから」という記述があります。イエイツは、大英帝国ロンドンの喧騒の中で、貧しく、しかし平和な静けさに包まれるアイルランドの故郷を思っていたのでしょう。
ついこの間までのアイルランドでは、映画「静かなる男」の冒頭のナレーションが「列車はいつものとおり3時間遅れで到着しました」と説明しているとおり、20世紀の産業世界にはおよそ適応できない人々の、のんびりした(しかし貧しい)生活が続いていたのです。
しかし、時代は変わりました。90年代以降、かつての移民の子孫たちが、大挙してアメリカからアイルランドに帰還しています。それは、映画「静かなる男」の主人公のような傷心の帰国ではありません。アイルランドで労働力が不足し、またアイルランドがアメリカより豊かな国になったために、移民の子孫が戻ってきたのです。
リープフロッグが起こったことにより、人の流れも逆流しました。イエイツの妖精たちも、さぞや驚いていることでしょう。
(連載第14回)
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■野口悠紀雄(のぐち・ゆきお)
1940年、東京に生まれる。 1963年、東京大学工学部卒業。 1964年、大蔵省入省。 1972年、エール大学Ph.D.(経済学博士号)を取得。 一橋大学教授、東京大学教授(先端経済工学研究センター長)、 スタンフォード大学客員教授などを経て、 2005年4月より早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授。 2011年4月より 早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問。一橋大学名誉教授。2017年9月より早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター顧問。著書多数。
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