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藤原正彦「古風堂々」 持統天皇に背いた私

文・藤原正彦(作家・数学者)

 IRという字が新聞をにぎわせている。カジノ、ホテル、劇場、レストラン、国際会議場、スポーツ施設、ショッピングモールなどの集まった複合施設のことである。IR推進法が成立しているが、カジノを除いた部分はありふれたものだから、IR推進とはカジノ解禁のことと思ってよい。ラスベガス、マカオ、シンガポール、韓国などのように大きな集客力をもつIRにより、観光客の増加や税収増を狙うのだという。

 カジノすなわち賭場では胴元が儲かるようになっている。最も単純なサイコロ賭博とは、客が例えば3の目に金を賭け、胴元のふったサイコロの目が3だと、掛け金が4、5倍になって戻るというシステムだ。確率的には6度に1度しか勝たないのだから、客が不利である。勝った客はもっと儲けようと思うし、負ければ悔しいから次で取り戻そうと思うのが人情だが、繰り返せば繰り返すほど、結果は確率通りになる。「大数の法則」と呼ばれるもので客は必敗となる。

 ところが、数学的に必敗のギャンブルに数学者がはまることがある。ある日本人著名数学者は、カリフォルニア大学に客員教授として滞在中、毎週末ラスベガスやリノへ行っては月給の大半を奉納していた。そう言う私もギャンブルが嫌いでない。「ギャンブルをするような者は人間の屑だ」という、父の教えに背いたのは29歳になったばかりの頃だった。ミシガン大学で研究一筋の生活を送ろうと、日本を出た私はなぜか乗り継ぎのロサンジェルスでラスベガス行きの長距離バスに乗ってしまった。ホテルに着くと、荷物を運ぶボーイが「女が必要なら連絡してください」と紙きれをくれた。40度の酷暑を避けようと、昼寝をしてから日の落ちた街に出た。光景は昼間と一変していた。無数の派手なネオンとけばけばしいイリュミネイションが夜空に挑戦するかのように高くそびえ、華美なネオンの点滅が妖しさを加えている。砂漠のど真中にできた、この徹底して人工的な街の途方もない虚飾に目眩を感じながら、私はとあるカジノに入った。バニーガールの運ぶサービスの飲物を飲みながらそのまま約30時間、不眠不休でギャンブルし続けた。その結果、ミシガンへの航空運賃と、当地で当面必要であろう50ドルを残し、すべての現金とトラベラーズチェックを使い果たした。数学の正しさを身をもって証明したとも言える。素晴らしいレストラン、一流歌手のステージ、それに私向きのいかがわしいショーなど盛り沢山にあるのだが、信じ難いことにこの私が、食欲、睡眠欲、そして性欲までを失ってしまったのである。

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