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出口治明の歴史解説! アメリカの「三大名スピーチ」はキング牧師、ケネディ、それから?

歴史を知れば、今がわかる――。立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明さんが、月替わりテーマに沿って、歴史に関するさまざまな質問に明快に答えます。2020年7月のテーマは、「アメリカ」です。

★前回の記事はこちら。
※本連載は第35回です。最初から読む方はこちら。

【質問1】アメリカ建国の独立戦争では、連合王国(イングランド、スコットランド)に戦争で勝って独立しました。どう考えても強いであろう本国に植民地がどうして勝てたのでしょうか。


アメリカが独立を宣言したのは、独立戦争(1775~1783)が始まった翌年の1776年7月です。独立宣言をしたから戦争が始まったのではなく、戦争中に「もう我々は独立国だ」と宣言をしたわけです。植民地側には勢いがあったのに対して、連合王国の側はさっぱりでした。

その理由は、ヨーロッパ全域で戦った七年戦争(1756~1763)に隠されています。

七年戦争はプロイセンに対してオーストリア、フランス、ロシアが連合して戦いました。このとき連合王国は、プロイセンに味方します。「ヨーロッパに強国ができたら困るから、必ず弱いほうに味方して、均衡を保つ」というのが連合王国の発想です。しかし、この国が賢いのは、軍隊はほとんど送りませんでした。プロイセンには「ベルリンは遠いし、うちの軍隊は弱いので、これで応援しますよ」といくらかのお金を送ってお茶を濁しました。

ところが、これは真っ赤なウソ。その間に全兵力を北米に展開して今のカナダにあたる地域のフランス植民地“ヌーベルフランス”を自分の領土にしようと目論むのです。結果的には七年戦争はプロイセン側が勝利し、連合王国は目論見通りヌーベルフランスを手に入れます。

しかし、1つ誤算が生じました。連合王国はヌーベルフランスを獲得したものの、予想外に費用がかかってしまったのです。そして北米でつかいこんだ戦費をどうしようかと頭を悩ませることになります。「北米でやった戦争だから、同じ北米の植民地に負担させよう」とイギリス領だった地域に税金を課します。当然、植民地の住人たちは激怒しました。

ロンドンの英国議会には、植民地が選出した投票権を持った議員がいません。「こっちの代表者がいないのに、一方的に課税を決めるとは何ごとだ!」という言い分です。「代表なくして課税なし」がスローガンとなり、対立は深まるばかりです。

これまで連合王国に煮え湯を飲まされてきたフランスは、当然のように植民地側を応援することになりました。こうして、北米の植民地と連合王国の戦争がはじまりました。

戦争には大義名分が必要です。「家族を守るため」「悪党を懲らしめるため」「自由、平等、友愛の社会を実現するため」と、自分たちが戦う正当な理由がなければ、兵士たちの士気は上がりません。「あいつらが怒るのも無理ないよなぁ」と思いながらは戦えないのです。

フランスは、連合王国と違って、この戦争に義勇兵も資金も膨大に投じました。

そのような状態が続く中、合理的な発想ができる連合王国の人たちは、「たくさんの犠牲を払って植民地を守り抜くより、独立させて交易すれば、それでええやんか」と頭を切り替えたのかもしれません。結局は、植民地側の勝利となりました。

アメリカが独立戦争で本国に勝てたのは、連合王国のほうがちょっと後ろめたくて、気合いが入らなかったことと、イギリスを恨んでいたフランスがかなり本気に介入をしたことによるのでしょう。



【質問2】前回の講義で、キング牧師の公民権運動に触れていました。よくキング牧師の名前が挙がりますが、彼は何をして歴史に名を残したのでしょうか。

マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(1929~1968)は、アメリカのみならず人種差別の歴史を語るうえで欠かせない人物ですね。有名な演説「I Have a Dream(私には夢がある)」は、どこかで聞いたことがあるでしょう。

キング牧師は、1950年代から60年代にかけてアメリカで活発になった「アフリカ系アメリカ人公民権運動」の立役者でした。
 
最初に差別反対運動の表舞台に立ったのは、南部アラバマ州モンゴメリーで起きた「ローザ・パークス事件」(1955)に抗議するバス・ボイコットでした。ローザ・パークスという黒人女性が、公営バスに乗っていたとき、運転手から白人の乗客に座席を譲れと命じられて彼女は拒否しました。彼女は人種分離法違反で警察に逮捕され、州の裁判所で罰金刑に処せられます。

黒人たちはこの事件に抗議し、バスの利用をボイコットする運動を展開しました。この運動を指導する組織のリーダーに、モンゴメリーの教会に赴任したばかりのキング牧師が選ばれます。彼自身も、高校時代に弁論大会で優勝した帰りに、バスのなかで白人に「席を譲れ」と強要されたというエピソードが残っています。

このバス・ボイコット運動は、黒人以外の有色人種や白人も参加し、大きな反響を呼びました。そして翌56年に「バス車内の人種分離は違憲」とする最高裁判所の判決が出たことで、反人種差別運動は広がっていきます。

キング牧師は初めから徹底した「非暴力主義」を貫きました。これは、インド独立の父として知られるマハトマ・ガンディー(1869~1948)の「非暴力、不服従」から学んだようです。この非暴力を生涯にわたって貫き通したことが、キング牧師の偉大さを際立てていると僕は思います。

キング牧師が「I Have a Dream」と演説したのは1963年8月、20万人以上が参加したワシントン大行進の場です。リンカーンの奴隷解放宣言(1862)から100年を記念する大集会でした。この翌年の64年に彼はノーベル平和賞を受賞しています。

ところが、4年後、キング牧師は白人男性が撃った凶弾に倒れ、39歳という若さでこの世を去りました。遊説先のメンフィスでのことでした。

キング牧師は、黒人差別に反対する運動の象徴となりました。現在、暗殺されたモーテルは国立公民権博物館となり、キング牧師の誕生日に近い1月の第3月曜日は「キング牧師記念日」の祝日です。

あらゆる運動、キャンペーンには、象徴となる人物が必要です。近年でいえば、環境保護活動ならグレタ・トゥーンベリさんがその役割を果たしているのでしょう。

世界史のなかで顕著にそのことを教えてくれるのはナポレオン・ボナパルト(1769~1821)です。この連載の第18回で紹介したように、ナポレオンは300年前に活躍したジャンヌ・ダルクの英雄譚を新聞で広め、「自分も同じような田舎出身の救世主やで」とアピールしました。ジャンヌ・ダルクをナポレオン戦争の象徴とし、国民国家(ネーションステート)を創出したわけです。

象徴となる人たちは、生前の偉大な功績とともに、非業の最期や名文句なども記憶されます。

キング牧師の「I Have a Dream」と、ジョン・F・ケネディの「国があなたに何をしてくれるのかを問うのでなく、あなたが国のために何ができるのかを問うてほしい」、オバマ前大統領の「Yes We Can」はアメリカの三大名スピーチだと僕は考えています。

(連載第35回)
★第36回を読む。

■出口治明(でぐち・はるあき)
1948年三重県生まれ。ライフネット生命保険株式会社 創業者。ビジネスから歴史まで著作も多数。歴史の語り部として注目を集めている。
※この連載は、毎週木曜日に配信予定です。

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