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不敬か伝統か…筑紫国岡田宮と「神武天皇の顔出しパネル」|辻田真佐憲

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 思わず仰け反った。神武天皇の顔がくり抜かれている。観光地でおなじみの顔出しパネルだが、まさかこれを素材に使うとは。隣の女性も同じく顔に丸い穴。名前は書かれていないが、同皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)だろう。戦前ではあり得なかった「不敬」な光景に驚いているのか、右上に描かれた八咫烏も瞠目の表情だ。

①岡田宮境内の「神武天皇の顔出しパネル」(2020年10月、筆者撮影。以下すべて同じ)。

岡田宮境内の「神武天皇の顔出しパネル」(2020年10月、筆者撮影。以下すべて同じ)。

 ここは、北九州市八幡西区、JRの黒崎駅よりほど近い岡田宮(岡田神社)。『古事記』によれば、神武天皇は東征のおり、「竺紫の岡田宮」に1年滞在したとされる。同社は、その「岡田宮」を自認しているため、異例の顔出しパネルで神武天皇との縁を示そうとしたのだろう。

 もっとも、神武天皇が上陸したとされるのは、もっと西側だった。岡田宮より約1キロメートル先の皇后崎(こうがさき)公園あたりがそうだ。現在では埋め立てられているものの、かつてそこは洞海湾に突き出た岬であり、湊として機能していた。神功皇后が上陸したという伝承も残っている(地名はこれに由来)。岡田宮も、慶長年間より前はこの近くに鎮座していたというから、たしかに、海に臨んでいたというわけである。

 皇后崎公園に隣接する一宮神社にも足を運んでみた。すると、「古代斎場(神をまつる場所)」の文字。案内板によれば、神武天皇がここで天神地祇を祀ったらしい。その断定はどうかと思うが、付近には、弥生時代後期から古墳時代に及ぶ埋葬遺跡がみられる。その地形ゆえ、ここでは古くから人々が生活していたのだろう。

②一宮神社境内の案内。

一宮神社境内の案内。

 であれば、あの記念碑が建っていてもおかしくない。そう、「神武天皇聖蹟顕彰碑」だ。

 これについては以前、岡山市の高島を訪れたときに少し言及した。1940年、神武天皇が即位してから2600年とされる節目を記念して、大分から奈良まで、神武天皇が立ち寄ったとされる19の地点に設けられた記念碑である。設置にあたっては学術的な調査が行われ、たとえ地元に伝承があっても、証拠不十分な場合は排除されるなどという力の入れようだった。

 身も蓋もないことを言ってしまえば、もともと神武天皇など実在しないのだし、岡田宮の「証拠」は上記の伝承で十分な気もするけれども、どうやら、この調査で不適格の烙印を押されてしまったらしい。文部省編『神武天皇聖蹟調査報告』には、「根拠が薄弱」「徴証は不十分」など厳しい指摘が並んでいる。

 では、筑紫国の「神武天皇聖蹟顕彰碑」はどこに建てられたのか。それは、さらに西。北九州市を抜けた先の、遠賀郡芦屋町だった。

 JR鹿児島本線で博多方面へ。最寄り駅の遠賀川駅は、いかにも物寂しく、ホームからは遥かに稜線が見える。ビルがひしめき、賑やかなロータリーもあった、黒崎駅前とは好対照だった。とはいえ、興味深い記念碑とはしばしばこういう僻地にこそあるのだから、期待も高まらないではなかった。

 タクシーに乗り、日本海へ向けて北に約15分。航空自衛隊芦屋基地のちょうど裏手、神武天皇社の境内に、その記念碑はあった。

「神武天皇聖蹟崗水門顕彰碑」。花崗岩の石碑が中央に屹立し、基壇には石柵が巡らせてある。石碑は、高さ約3メートル、幅約1メートル。高島のそれとまったく同じデザインで感動する。頂上部がやや黒く汚れているものの、縦に刻まれた文字ははっきり読み取れる。ただ、記念碑の前に、まるで邪魔をするようにソテツが生えていて、写真が撮りにくい。

③「神武天皇聖蹟崗水門顕彰碑。向かって右側に神武天皇社が鎮座する。

神武天皇聖蹟崗水門顕彰碑。向かって右側に神武天皇社が鎮座する。

 実はこの記念碑、元来もっと海側に建てられていた。それが戦後の1952年、元の所在地で小学校の改修工事があったため、いわば追い出されるかたちで、現在地に移ってきたのである。当時の芦屋町長は、この神武天皇社の神主でもあったという(W・エドワーズ「平成における神武天皇」『天理大学学報』58巻2号)。

 それはともかく、よく見ると、碑文が「岡田宮」ではなく「崗水門」となっている。これは、『日本書紀』の記述「天皇、筑紫国の岡水門に至りたまふ」に由来する。一般に「岡田宮」と「崗水門」は同一視されているが、聖蹟調査委員会は両者を区別した上で、前者は不詳だが、後者は『万葉集』『風土記』などの記述から、この地だと推認したのである。

 せっかくなので、神武天皇社も見物してみた。標柱には篆書体で「県社神武天皇社」。社格は戦後、コンクリートなどで塗りつぶされている場合も多いが、ここはそのままになっている。戦前に建てられた社殿は、1945年6月、米軍の焼夷弾によって焼失。現在のそれは、伊勢神宮の撤下材を使って再建されたという。現在は近くの岡湊神社によって管理されており、境内は人気がなかった。

 これで目的は果たせたのだが、もうひとつ、気になる神社がもっと西にあった。福岡県福津市の神武神社。名前からして、岡田宮関係だろう。せっかくなので、ここにも足を運んでみた。

 またもや鹿児島本線に乗り、東福間駅へ。駅前より徒歩約10分、神武神社は名前のわりに小ぢんまりしていた。近隣の家のほうが立派なくらいだ。そして案内板にいわく、「神武天皇が東征の折、この地に暫く鳳輦を駐め給ふ。その陣跡に社を建立す」。やはり神武東征関係だった。
 もともとは、神武天皇が天照大神から6世にあたるため「六権現」と号していたが、明治に入って「神武神社」に改称されたという。

④福津市の神武神社

福津市の神武神社。

 ところが、そのすぐ隣には、1972年に社殿が改築されたとき、大量の土器が出土したことから、「社殿一帯は奈良・平安時代の祭祀遺跡であったと考えられている」と記されている。これはつまり、この神社が神武東征まで遡らないということではないのか。しばし混乱してしまった。

 とはいえ、この手の由緒は曖昧なので、いちいち文句をつけても仕方がない。神武天皇自体、こういう一種のネタだったのだろう。そう考えると、岡田宮の顔出しパネルも「不敬」ではなく、むしろ「伝統」に則ったものだと思えてくる。

 建国神話を覆そうと藻掻くのがスマートではないと述べるゆえんもここにある。われわれもこの“緩さ”を見習い、神武天皇を適当に消費し、受け流す術を身に着けたほうがよい。

(連載第25回)
★次週に続く。

■辻田真佐憲(つじた・まさのり/Masanori TSUJITA)
1984年、大阪府生まれ。作家・近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科中退。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『天皇のお言葉』『大本営発表』『ふしぎな君が代』『日本の軍歌』(以上、幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)、『文部省の研究』(文春新書)、『たのしいプロパガンダ』(イースト新書Q)、『愛国とレコード』(えにし書房)などがある。監修に『満洲帝国ビジュアル大全』(洋泉社)など多数。軍事史学会正会員、日本文藝家協会会員。