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われらが同時代人ドストエフスキー 亀山郁夫

文・亀山郁夫(名古屋外国語大学学長)

今年2021年は、ロシアの文豪ドストエフスキーの生誕200年の記念すべき年にあたり、この秋口から冬にかけて、ロシア各地で記念行事が予定されている。コロナ禍という悲しむべき事態でなければ、世界の研究者はこぞってロシアを訪れ、それこそ対面による知の一大祝祭に加わることができただろう。

ついでながら、今年は、私個人にとっても節目の年にあたる。ドストエフスキーの研究と翻訳に携わって20年。いや、学園紛争の嵐のさなか読みふけったこの作家への情熱を封印し、20世紀ロシアの文学や文化研究にシフトしてから、約半世紀の時が流れた。その間、「スターリン学」の名のもとに、全体主義権力に翻弄された知識人たちの抵抗の軌跡を明らかにしようとした時期もあるが、どのようなテーマに向き合おうと、常にドストエフスキーの問題系を意識していた。端的には「黙過」(黙って見過ごすこと)のもつ罪悪性が、私の主たるテーマとなった。スターリン独裁の下では、他者の不幸に目をつぶる「賢さ」がサバイバルの道とされ、他方、多くの心ある知識人が、日常的に「見捨てられる」恐怖に慄いていた。

2001年、ついに私のドストエフスキー回帰の願望に火をつける事件が起こる。ほかでもない、同年9月に起こった同時多発テロ事件である。その日、私は、ロンドンのホテルでくり返し、ツインタワー崩落の映像を見ていた。作家の髙村薫が、後に主人公の一人に、「新しい抽象絵画」「世界の外」(『太陽を曳く馬』)と語らせた、おぞましくもグロテスクな光景。私は、PCのキーボード上に両手を置き、どこかから必ず訪れてくるはずの「言葉」を待った。

「神は死んだ、(……)ぼくたちが神になった」――。

恐ろしく月並みな1行だった。神は存在せず、この未曽有の光景に見入る私たちこそが神になる。ところが、私たち自身、この悲惨に遭遇した人のだれ一人救い出すことができない。

思うに、こうした思考パターンそれ自体が、長年にわたるドストエフスキーとの無言の対話の産物だった。なぜならこの1行は、後年の長編小説に登場する主人公たちが口にするセリフと驚くほど深くこだましあっていたからである。『悪霊』に登場するキリーロフは、「神がなければ、ぼくが神だ」と叫び、ピストル自殺によって自らの神性を証明しようとする。他方、『カラマーゾフの兄弟』の主人公イワンは、「神がなければ、すべては許される」のひと言で、下男スメルジャコフのうちに「父殺し」の願望を掻き立てる……。

イワンの予言は、20世紀に入ってから、作家の想像力も及ばない桁外れの規模で現実化しはじめた。スターリン独裁とナチス政権下での大虐殺。ベトナム戦争、9.11。数えあげればきりがない。だが、2015年2月、ISによる一連の動画配信に接し、私のうちに一種のパラダイムシフトが起こった。

「神があればこそ、すべては許されている」。

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