養老孟司×平野啓一郎 「方丈記」一人滅びゆくこと
権力も栄達も求めない――現代に蘇る災害文学。/養老孟司(解剖学者・東京大学名誉教授)✕平野啓一郎(小説家)
日本最古の災害文学
平野 鎌倉時代初期に鴨長明が書いた『方丈記』は、原稿用紙25枚分の短さだと養老さんが指摘しておられましたね。それにしては構成が工夫されていてドラマチックです。前半部からは、鴨長明が経験した災厄のリアリティが伝わってきます。
養老 火災、竜巻、飢饉、地震、疫病、源平の合戦、遷都……どれかひとつとっても長編小説になるような大事件ばかりで。この世に起こりうるほとんどの災厄を見た人が、その述懐を淡々とジャーナリスティックに描くのが面白いところです。
平野 一方の後半部は、人里離れた山中に庵を構えて独居する話で、前半部とのコントラストが非常に効いていますよね。災厄の経験とその後の生活ぶりは、コロナ禍の現代人に響くところがあると感じます。
平野さん
©ogata_photo
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日本三大随筆のひとつ『方丈記』は、鴨長明による日本最古の災害文学だ。激動の時代を生き抜いた視点で「すべて、世の中のありにくく、我が身と栖(すみか)との、はかなく、あだなるさま」(おおよそ世の中は生きづらく、我が身と住まいがはかなく虚しいさま)が描かれ、晩年に5畳半ほどの「方丈庵」を作って自給自足の生活に落ち着くまでが綴られる。 その内容の普遍性から、戦後や東日本大震災後、そしてコロナ禍と、社会が不安定になるたびにブームが起きてきた。養老孟司さんは愛読書として「日本の古典で1番読んでもらいたい本」と紹介してきた。平野啓一郎さんはコロナ禍初期にユーチューブなどで「今読むとすごく面白い」と取り上げている。
その内容の普遍性から、戦後や東日本大震災後、そしてコロナ禍と、社会が不安定になるたびにブームが起きてきた。養老孟司さんは愛読書として「日本の古典で1番読んでもらいたい本」と紹介してきた。平野啓一郎さんはコロナ禍初期にユーチューブなどで「今読むとすごく面白い」と取り上げている。
死体が4万体以上も
養老 私が方丈記に興味をもったきっかけは、若い頃に読んだ堀田善衛さんの『方丈記私記』でした。方丈記の都の大火の描写が東京大空襲と重なるという趣旨なんです。数百年前の話と自分の知る時代がピッタリくるものかと実際読んでみると、文献の乏しい鎌倉時代にあって記述が具体的なんですね。今も覚えているのが、飢饉の際、隆暁(りゅうぎょう)法印という偉いお坊さんが供養のために死体の額に「阿」の字を書いて数えていったら、都の東半分だけで4万2300あまりもあったと。
平野 具体的な数字を出されると想像力を刺激されますよね。
養老 私は解剖をやっていたから死体には慣れているけど、そこまで都が死屍累々なのを見たら、人生ってなんだろうと考えざるを得ないだろうなと感じます。
平野 中世の日本人を知るうえでも有益です。勇ましい日本人像とはおよそかけ離れていて。
養老 貧乏でケチくさい(笑)。
平野 僕は高校の古典の教科書でさわりだけ読み、大学時代に本を乱読する中で通読しました。ただ当時は若かったから、仏教的な話としてはピンとこなかったんです。こちらは世の中で何か成し遂げてやろうと思っている時期ですから、あまり諸行無常を言われてもな、と(笑)。
養老 「ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」という書き出しは、『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と同じ感慨です。私も若い頃はカッコつけた美文と捉えていたのが、歳をとって本当にそのとおりだなと実感するようになりました。
平野 たしかに仏教って、歳を重ねるとジワッとわかってくる宗教です。釈迦にしても老病死を考え出したことで修行に出たわけで。
養老 方丈記の特徴として、権力に関する記述がないんですよ。鴨長明は源平の騒乱の時期を生き抜いた人ですけど、戦中戦後を生きてきた私は感覚が似ている気がします。
平野 どういうことでしょう。
養老 私は小学2年生で終戦を迎えて以来、組織や国の言うことを絶対あてにしないんです。教科書ひとつとってもあてにならないと身にしみたので。その点、組織より自分の感覚を頼りにする鴨長明の生き方はしっくり来るんです。
平野 なるほど。栄達を求めない鴨長明の生き方、たとえば「隣の家と軒の高さを競ってみたところで虚しいだけじゃないか」という彼の感覚は、今の僕にもわかります。現代の人たちが読んで共感するポイントはそのあたりにあるのかなという感じがします。
養老 そうですね。
養老さん
コロナとウクライナの共通点
平野 災害以外にも、遷都の話はまさに人の世の虚しさを象徴的に書いたくだりだと感じます。都だと信じてきたものが、よくわからない理由で別の場所(福原)へ移って、結局皆が困ってまた京へ戻ってくる。
養老 本質を突いていますね。現在のコロナ禍とウクライナ侵攻に共通するものは何かというと、「日常性の破壊」です。日常的に使われる「ありがたい」という日本語がありますが、有り難い、つまり本来は存在することが珍しいことなんです。日常性というのは普段はありがたいとは思わないものだけど、破壊されるとありがたくなる。方丈記は、遷都のくだりをはじめとしてそのことを書いているように見えます。
平野 おっしゃるとおりです。
養老 戦争も疫病も天災も、日常性を壊します。まして現代社会は、変な話ですが日常を維持することが日常性を破壊していくので、国連がSDGsなどと言い出さなくてはならないわけです。
平野 方丈記の前半で起きることは絶望的なことばかりですけど、陰気な印象を与えない筆致ですよね。さすがにユーモアでは支えきれない現実ではありますが。
養老 鴨長明はその絶望的な現実を生き延びて、60近くなっても30キロほどの山道を日帰りできるくらい元気な人ですからね。もっとも本来の人間はあれくらい歩けるのが当たり前なんですが。私は虫捕りに行くので山道を歩きますが、今の人は自分の足で歩かなすぎます。
平野 健脚なだけでなく、自然描写や町並みの描写から伝わってくることとして、目がいいですよね。文学作品って、目のいい人と視力の弱かった人では、描写の仕方が如実に違うんです。たとえば50代で盲目となったアルゼンチン出身の作家ボルヘスは、もともと目があまりよくなかったから描写に関心を示さず、観念的な話を書いたんじゃないかと思います。その点、鴨長明は視力に恵まれていたのでしょう。その目で4万以上もの死体を見るのは、今の感覚で言ったらメンタルが壊れかねない経験のようにも思うのですが。
養老 方丈記の描写で物乞いする人が餓死して死体が腐っていくさまがありますけど、昔調べてみたら、実物をよく見ていないとああは描けないんです。まさに実写です。そういうのが身近な時代の人は、現代人とは感覚が違うと思います。端的に言うと、中世は体の時代で、現代は脳、意識の時代です。たとえば芥川龍之介は、平安時代末期に書かれた『今昔物語』を『羅生門』のような作品に翻案するときに、主題を身体的状況から心理に改変しています。
平野 たしかにそうですね。
養老 心理劇にすることで、いうなれば中世を近世に変換したわけです。私は大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を観ていませんが、同じような改変をしているだろうと思います。当時の感覚で作ったら、野ざらしの死体だらけでNHKにクレームが殺到する(笑)。時間とともに変化するものの典型が体であり、諸行無常を具体的に示すのが死体なんです。
一方で、意識というのは諸行無常ではありません。死んだ人がネットに載せた文章や動画は、誰かがあえて消さなければ残り続ける。情報という変化しないもので満たされているのが今の世の中なんです。
ウクライナ侵攻で奪われた日常
ソロキャンプが流行る訳
平野 そういう今の世の中に疲れている人も多いです。何でも競争させられて、人の成功を見ると劣等感を感じる。だからどこかでこの日常が破綻することを……本当に破綻したら困るでしょうけど、ハリウッド映画で都市がボカーンと破壊されるのを観て楽しむような屈折を抱えています。
養老 それはあると思います。
平野 そういう人が方丈記を読んで、災厄が次々起こって最後は自然の中で一人生きるさまに触れると、ホッとするところがあるんじゃないかなと。今、ソロキャンプが流行っていますが、そういう感覚で読む人もいるんじゃないかと思います。
養老 皆、SNSに「いいね」するのも疲れたということでしょう。そういうのをいい加減やめたいという気持ちがあるんじゃないですか。
平野 人との関わりが煩わしいという風潮はすごくありますよね。他者と生きていく以上は社会規範に従わないといけないし、ハラスメントなどの規範意識の高まりで気をつけないといけないことも増えているから、疲れないようにするには人と接しないようにするのが1番だというのはわかる気がします。
養老 もうある程度、人の意見は聞かなくていいだろうと。
すがる子を蹴落とした
平野 一方で、僕はコロナ禍で方丈記を読み返してみて、なんとも言えない気持ちになった面もあるんです。同じように疫病を描いた文学作品でも、トゥキディデスの『戦史』やカミュの『ペスト』は、誰かが誰かを助けに行かなければならないという話です。ところが方丈記には、それがありません。
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