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先生に楯突いた母

 うちの実家は転勤族だったので、引っ越しが多かった。小学校は3校も行ったのだが、考えてみたら子供の適応能力は大したものだと我ながら思う。引っ越して数日でその地元の方言を話していたという。その頃、英語圏にでも引っ越してくれたら、数日で英語を話せたんじゃないかと思うと悔しくてならない。年々、頭の柔軟性に難を感じるこの頃である。
 
 物心ついた頃から私はとにかくお転婆だった。上に兄、下に弟をもち、真ん中っ子の一人娘。のびのびと育てられたせいなのか、そもそもの性質のせいなのか。親戚で集まると大勢の従兄弟たちを敵にまわし、ひとりで戦っていたという。親戚の叔父さんに久しぶりに会うと、大学生になったというのに、
「もう、ばかちんが、と言うとらせんか」
と聞かれたものだ。
流石に結婚して子供を育てているのでもう言われなくなったが、親戚で集まると、私がいかにお転婆だったかといろんなエピソードを披露されたものだ。

 そんな私が、小学校に入ったのは、かなり田舎だった。毎日川や野原で泥だらけになって遊び、川を下りすぎて帰れなくなったり、シロツメクサで冠を作ったり、怪我なんて日常茶飯事だった。その勢いのまま入学したので、色々と難しかったのだと思う。勉強が難しかったと思ったことはなかったのに、授業中に何をどうしたのかよく覚えていないが、私の机は、先生の教卓の横にいつも置かれていた。
それに、よく男の子を泣かしていたのは記憶している。私はあまり覚えていないのだが、母によると、私の友達の女の子に意地悪をしたとか、そういうことらしく、ちゃんと理由があった、とのことだった。母は社交的で顔も広かったので、他のお母様たちともうまくやってくれていたのだろうと思うが、特にトラブルなどはなかった。
そうは言っても、母はしょっちゅう学校に呼ばれて、私もよく母と一緒に帰ったのを覚えている。木造の、お城の中にある古い小学校。木の長い廊下で、中で先生と話している母を待っていたのだが、何を話していたのかは全然知らなかった。というのも、母は一度も先生に何を言われたか、だから私がどういうことを注意していかなければならないかなど、そういうことは一切言わなかったからだ。母がなぜ学校に呼ばれたのかその時は何も知らなかった。ただ、男の子、泣かしちゃったからかな?くらいには思っていた。
先生も、素晴らしい先生だった。注意されることはあったのだと思うが、特に何かを制限されたり、怒られたり、そういう記憶はない。ただ、のびのびと、いいところを伸ばしていこう、ということが感じられる教育だったと思う。

 そんな日々がガラッと変わったのが、やはり転勤だった。小学校2年生の夏休みに、田舎からいきなり大都会への引っ越しをすることになった。父の会社だけなのか、昔はそういうものなのか分からないが、転勤は1週間前に突然言い渡されるのだ。なのでその電話を受けた母はそのまま、市役所に走り、兄弟3人分の転校の手続きやらなにやらを全てやるのだ。5人家族となればかなりの荷物になるので引越しも大変だ。父が引っ越しに間に合わず、先に赴任先へと行き、全て母1人で引っ越しを終えたこともある。この時はどうだったか覚えていないが、戦力にならない子供たちは母の実家に預けられたようだ。

 都会の人の多さに圧倒されながら、小学校の初日を迎え、緊張したのを覚えているが、そこはさすが子供、ということなのか、お転婆で物怖じしない性格だったせいか、あまり苦労せずに友達はできたのを覚えている。ただ、少しして、お転婆のせいか男子とのトラブルがあり、また母が呼ばれることになった。その時の担任の先生は女性の先生で、厳しい先生だったのを憶えている。なんか、うまくいかないな、と感じていたので、おそらくそりが合わない先生だったのだろうと思う。
 前の小学校と違い、先生は母との話に私を同席させた。先生は、いかに私がお転婆でクラスをかき乱しているかを説明し、男子を泣かすなんて、とんでもない、ということをおっしゃっていたと思う。でも、母は、前の小学校でもそうだったので、理由があってのこと、ということで話していた。それでも、先生は収まらなかったのか、
「女の子なんだからもう少し大人しくしてもらわないと困ります!」
と厳しい口調でおっしゃった。
そうすると、今まで割と受け身で話を聞いていた母の表情がさっと変わり、
「女の子だからってどうして大人しくしていないといけないんですか?うちはそういう教育はしていません。」
とはっきり言い放った。
横に座っていた私は、びっくりしてその母の横顔を見上げた。今まで見たことがない、強い母の顔だった。しばらく目を離せなかった。
 秋の夕方のオレンジの光の中、帰り道を2人で歩きながら、母は、
「女の子も、元気でいいんだからね、なんで大人しくしないといけないのよねぇ。」
と何度か言った。私は初めて、ああ、そうか、私はこのままでいいんだ。とはっきり思った。
この件で、私は母にも、父にも、何も咎められなかった。ただ、怪我をさせてはいけない、ということははっきり言われた。

 この一件から、落ち着きのなかった私が、自分でもガラッと変わったのをよく憶えている。自分の中でもやもやしていたことが全てなくなり、どこかにストンと腰を下ろした気分だった。後々になって、ああ、認められたから、もう虚勢を張ることなんてないと安心したのかな、と思った。

 子供にとってただそのままを認められるというのは人生を左右する大きなことなのだろうと思う。私はたまたまお転婆に理解のある両親でラッキーだった。それも、母がまたお転婆だったからだと思う。となると、まっすぐ、お転婆でいいと、母を育ててくれた祖父母にも感謝をしたい。
子供だけじゃない、きっと大人になっても、そのままでいいんだよ、そのままで素敵だよ、とお互いに認め合えると、きっと誰もがその能力を最大限に発揮できるのではないだろうか。そして、そのことがその人の人生を良いものにしていき、それが日本を良くしていき、さらに世界平和に繋がるといっても、きっと、大袈裟じゃない。苦手な人にも、好きな人にも、誰にでも、まずは、この人はこのままでいいんだ、そういう気持ちで向かい合っていけるようになりたいと思う。そういう社会になっていけたらいいな、と思う。

 

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