「多様性がある」というのは「多様な意見がある」状態である
多様性とは。
幅広く性質の異なる群が存在すること。性質に類似性のある群が形成される点が特徴で、単純に「いろいろある」こととは異なる
引用)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%A7%98%E6%80%A7
企業における「多様性」には、この定義だけでは足りないと最近思うようになってきた。出自や職種における多様性があることは前提であり、その上で「多様な意見が出る状態」こそが多様性であるという仮説。
いろんな部署から、いろんな役職やいろんな職種の人たちが集まった会議。そこで何かを提案する人に対して誰も発言していない状況を想像したとする。これは果たしてこれは多様性が発揮されていると言っていいだろうか?
いろんな人が集まっているが、そこで言語化されたものは提案者が行ったアイデアそれ一つしかない。これではそのアイデアがブラッシュアップされる余地が生まれない。
もう少し考えてみる。
例えば誰かが「それにはこんなリスクがあります」「この観点が検討されていないようです」のような反応があったとしよう。これはアイデアが発展するキッカケになるかもしれないが、それら反応への解決が提案者ただ一人に委ねられてしまうのであれば、これもまたブラッシュアップする余地は少ないだろう。「批評家的発言」とでも言うべきか。
批評家という職業はその立ち位置で成り立っているのかも知れない。しかし同じ組織の中で同じ目的を果たそうとしているチームにおいては、「批評」だけでなく「さらなる提案」が求められる。提案者が持ち得なかった観点やリスクに気づける人は、それを解決する手段を持っているハズなので指摘だけでなく解決策くらいは提供すべきろう。それが専門家であると考えている。
ここで書いたような「提案」「アイデア」「さらなる提案」こそが意見であり、それに対して誰も何も「意見」を提供しない・できないとするならば、たとえその場の構成員が多様に富んでいたとしても、多様性のある状態とは言えないだろう。
その状態を目指すには、個人としては専門性のある観点から何かを意見ができるように努力すべきだろう。独自の発想だけでなく、それを言語化し周囲に伝えるスキルが必要である。群としては、正解の無い問題に対して多様な意見が出やすい環境(心理的安全性)やその中で意思決定をする判断基準や胆力が必要だろう。
個人として求められている努力がないまま心理的安全性を高めたとしても、また多様な意見を吸収する力がないまま専門性の高い人を集めたとしても、企業として必要な「多様性のある状態」には至らないだろう。
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Photo by Markus Winkler on Unsplash
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