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原子爆弾のメカニズムと開発過程

先日、クリストファー・ノーラン監督の最新作『Oppenheimer』(原題)の新しい予告編が公開された。一般公開されたこの予告編では、主演のキリアン・マーフィーやマット・デイモンも登場。原子爆弾の製造や設置過程が映された。

ここで描かれているように、実際にトリニティ実験で使用された原子爆弾も球状で、複数のパーツを組み合わせてできている。
本記事では、第二次世界大戦で使用された原子爆弾の種類、仕組み、製造の過程、ロスアラモス国立研究所の内部事情について言及する。

│ 原子爆弾の種類と仕組み


原子爆弾は二種類ある。
濃縮ウランを用いた「ウラン型原子爆弾」と、プルトニウムを用いた「プルトニウム型原子爆弾」だ。広島に投下されたのはウラン型原子爆弾(通称リトルボーイ)、長崎に投下されたのはプルトニウム型原子爆弾(通称ファットマン)である。
原子爆弾は火薬を使った爆弾よりも遥かに強力な爆発を生み出す。透過力の強い放射線(ガンマ線や中性子線)、衝撃波、爆風、熱線の放出が主な特徴とされる。

オッペンハイマーがいたロスアラモス国立研究所では、まずウランの核分裂を利用した原子爆弾の開発が進められた。
ウラン型原子爆弾は、はじめに核分裂を起こすことができる濃縮ウランを生成する工程から始まる。ウランの原子核に中性子を高速でぶつけると、原子核は核分裂を起こし、エネルギーが生まれる。そこから飛び出した中性子が別の原子核にぶつかり、また核分裂を起こす。これが無数に繰り返され、一瞬のうちに膨大なエネルギーが生まれる。こうして核分裂の連鎖反応を利用して作られたのが原子爆弾である。

しかし、原料である濃縮ウランを生成するには莫大な資金と手間がかかり、兵器として量産できない。そこで容易に生成でき、大量生産が可能なプルトニウムが注目された。

ところが、プルトニウムはウランと同じ方法では核分裂を起こせない。そこで科学者たちは「プルトニウムを急激に圧縮すれば核分裂を起こせる」と考えた。プルトニウムを火薬で覆い、それを爆発させて一気に圧縮させることで核分裂を起こすのだ。この燃焼現象は「爆縮」と言い、原爆の起爆方法の技術として用いられる。

爆縮を起こすためには、プルトニウムに均等かつ同時に圧力をかける必要がある。この設計に対応したのが数学者のジョン・フォン・ノイマンだ。


ノイマンは、プルトニウムを均等に圧縮するための火薬の種類や配置を計算。しかし爆縮の計算は上手くいかず、難航を極めた。
ノイマンは当時の最新型の計算機(パンチカード式計算機)を利用。結果、プルトニウムの周りを32の区画に分け、火薬と点火装置を配置する方法を打ち出した。

ノイマンらが所属していた理論チームが導き出した案は、技術チームが引き継いだ。少しでも誤差が生じると爆縮は起きないことがわかり、誤差の検証のため、研究所の所長であるオッペンハイマーは一瞬の光を捉えられる超高速度カメラを手配。これにより検証を重ね、爆縮が正確に起きるよう精度を高めていった。オッペンハイマーは施設内の各チームを回り、進捗状況を都度確認。チームが一丸となるよう指揮した。
このときすでにチーム全体が核兵器開発を目標に一致団結している状態であり、異論を唱える者はいなかった。

1944年6月6日、連合軍はドイツの占領下だったノルマンディーに上陸。8月25日にはヒトラーの支配下にあったパリを奪還、ナチス・ドイツの敗戦が濃厚になる。更に、アメリカ軍の諜報部隊「アルソス」がドイツの原爆開発に関する情報を入手。なんとドイツは原子爆弾を作ってはいなかったと言うのだ。
もともとはドイツの原爆開発を恐れて始まったマンハッタン計画だが、この情報を得たことで大義を失う。物理学者ジョセフ・ロートブラットはここで「もはや原爆を作る必要はない」と判断、ロスアラモス研究所を去った。

│ なぜ原爆開発は続行されたのか?


オッペンハイマーの教え子であるロバート・ウィルソンは、原爆開発の是非を決める会議を開くようオッペンハイマーに意見を求めた。しかし、軍と揉めて開発が中止になることを懸念したオッペンハイマーはウィルソンに反対。軍を慮るばかりのオッペンハイマーに失望し、ウィルソンは大勢の研究者たちの前で原爆開発に異を唱えるべく集会を決行した。

だが、驚くべきことに、集会の参加者の席にはオッペンハイマーの姿もあった。ウィルソンに賛同するためではなく、他の研究者たちに原爆開発の続行を説得するためだ。
ウィルソンの許可を得て発言の機会を得たオッペンハイマーは「原爆はアメリカの軍事機密となり、いつ新たな戦争で使われるかわからない。むしろ原爆を完成させ、実験を行い、世界の人々に原爆の恐ろしさを知ってもらえば、国際平和を話し合う良い機会になる」と発言した。原爆が世界平和に貢献すると考えたのだ。オッペンハイマーの卓越したリーダーシップと発言力に、その場にいた誰もが彼の言葉に納得した。あえなく集会はお開きとなる。

1945年5月7日、ナチス・ドイツが無条件降伏。いよいよ原爆開発の目的は失われたかと思われたが、まだアメリカには敵がいた。日本である。
太平洋戦争で多くの犠牲者を出したアメリカは日本への原爆投下を検討、議論を重ねた。オッペンハイマー、アーネスト・ローレンス、アーサー・コンプトン、エンリコ・フェルミなど、研究所内の名だたる科学者たちが議論に参加した。

しかし、すでに空襲で壊滅状態の日本に原爆投下する必要性が本当にあるのか?という声も上がった。そこで、原爆を軍事利用するのではなく、砂漠や無人島などを使って原爆の威力を示すデモンストレーションが検討された。だが、あくまで威力を示すのが目的のデモンストレーションを支持する者と、実戦での原爆投下を推進する者とで意見が分かれた。

【デモンストレーション支持派の主張】
・実戦で使うのは人道に反する。
・原爆投下すればアメリカが国際的な批判を受ける。
【原爆投下支持派の主張】
・実践で使用しない限り、日本の戦争支持者を降伏させるのは難しい。
・原爆を使って早く戦争を終わらせられれば、多くのアメリカ兵の命を救える。

最終的に科学者たちは、戦争終結のためにはデモンストレーションは無効と判断。原爆の直接的軍事使用(つまり日本への原爆投下)以外には考えられないとの結論を出した。科学者たちは軍事的な直接権限がないため「早期に戦争を終結させることが自分たちの責任である」と考えていたのである。

1945年7月16日、トリニティー実験当日。実験に使用されるプルトニウム型原子爆弾は、すでに爆縮を正確に起こせる精度にまで仕上がっていた。
午前5時29分45秒、起爆装置が押され、実験は成功。オッペンハイマーは一言だけ「うまくいった」と呟いた。原爆開発に異を唱えて集会を開いたロバート・ウィルソンは「ひどいものを作ってしまった」と落胆して座り込んだという。トリニティ実験の責任者であるケネス・ベインブリッジは、実験のあとオッペンハイマーに「Now we are all sons of bitches.(これで俺たちはみんなクソ野郎だな)」と言った。

その後、8月6日には広島に、8月9日には長崎に原爆が投下され、9月2日に第二次世界大戦が終戦。冷戦が始まった。

終戦後、ロバート・ウィルソンはフェルミ国立加速器研究所の初代所長に就任。「ドイツが降伏した時点でロスアラモスから去るべきだった」と後悔した。また、一人でロスアラモスを去ったジョセフ・ロートブラットはその後イギリスに渡り、核兵器や戦争の反対を訴えるパグウォッシュ会議の初代事務局長に就任。1995年にはノーベル平和賞を受賞した。


現代における科学技術の発展は、もはや誰にも止められない領域に達した。誰かが反対しても、権力者や多数派に説き伏せられる。誰かが職を退いても、また人員が補充される。
原爆、水爆、化学肥料、ナパーム、毒ガス、優生学。技術が進歩するたび、それらを悪用して自分の利得にする者が現れる。だからこそ、国際的な警鐘や管理が必要なのだ。そのために我々がまずできるのは「問題を周知すること」、つまり世の中で起きている様々な問題に目を向けることであると筆者は考える。

1965年にノーベル物理学賞を受賞した物理学者の朝永振一郎が、著書『科学者の社会的責任』の中で残した言葉を記して本記事を締めくくる。

「科学者の任務は法則の発見で終わらず、その善悪両方の影響を人々に知らせ、誤った使われ方を防ぐことに努めなければならない。」


映画『Oppenheimer』はユニバーサル・ピクチャーズが配給、2023年7月23日に全米公開予定。