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カエルちゃんに見えている世界〜同じものを見ているという奇跡的な幻想〜

こんにちは。あきです。

みなさん、カエルってどういう世界を見ているか知っていますか?

カエルは、動いているものしか見えないそうです。

つまり、静止しているものは見えていない。


私はこのことを、お師匠さんの講座で知ったのですが、とても衝撃的でした。

カエルちゃんは、止まっているものが見えない!
動くものしか見えない!

じゃあ、私の見ている世界はカエルちゃんから見たらどう見えるのだろう???

と考えてました。

止まっていたら、見えないわけですから、私とカエルちゃんが例えば動く車を一緒に見ていたとして、車が止まると、カエルちゃんの視界から車が消えるのですね。

そして、車が動き出すと、カエルちゃんの視界には車が見える。

私には、動く車も止まっている車もずっと見えていますが、カエルちゃんには車はときどき消えて見える。

カエルちゃんに取っては、それが自然で当然。

ここで私が、「ああ、車が止まったね。あそこにいるね。」とカエルちゃんに話しても、カエルちゃんには止まっている車は見えていないので、

「車は見えないよ。」
「そもそも止まっている車なんて今まで見たことがない!」と、言うでしょう。

(う〜ん、そうだよね。止まっている車は見えないんだもんね(^^;)

これは、私とカエルちゃんが話たらというイメージですが、動物と人間で見ているものも、世界の見え方もちがう。

カエルちゃんに見える世界、このことに思いを馳せると、自分の見ている世界や世界観って、人間の、私の捉えている世界ということだけで、何か一つのものをみんな(地球上の動物)で同じように見ている訳ではないんだな。

私の見ていると思っている世界は、世界のごく一部の一側面にすぎないのだ。という自覚がわいてきます。

そして、人と人であっても、自分と同じように他の人も世界を見ている・捉えていると思ってしまうのは、ほんとうに奇跡的な思い込み(幻想)なのだなと。

それは、人と人の間で、さっきのようなその人にとっての「カエルちゃんには見えない車」の話をたまたましていないから、気づかない、明るみに出ていないだけ。

私たちは、他の人もある程度は自分と同じような世界を見ている、認識しているという安堵感のなかで楽観的に生きているなと思います。

まあ、だいたいそんな感じというあいまいさの共感でいいのだろうと思います。

そこを一から十まで、何が一緒で何がちがう認識かをチェックしていたら、コミュニケーションは何百年あっても足りませんからね(笑)

ただ、頭の片隅に、自分が捉えている世界や世界の認識は、私だけのものであり、他の人も同様に、その人その人のユニークな世界の捉え方と認識がある。ひとりひとりがちがう世界を見ている。

そう分かっている自分がいると、何かが正しいとか間違っているとか、なんであの人はそんなことを言うのだろうとか、そういう知らず知らずに「みんな同じ世界を見ているはずでしょ」という期待からくる支障は少なくなるだろうと思います。

以上、もっと簡潔に書けたら良かったですが、ぽろぽろ書いていたら長くなりました。またどこかで書きたいと思います(^^)

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