ずっと大好き。それだけで人生はミラクル。
さかなクンをモデルに俳優・のんさんが主演をつとめた映画『さかなのこ』。
映画そのものを包む赤ちゃんのようなピュアさ、まっしろなカラフルさを2年経ってもあざやかに思い出せる。
物語にも出てくる人たちにも音楽にも、そのぜんぶに2時間ずうっと心を抱きしめられた!
2022年の日記のなかに映画への感想が走り書きされていて、
それが今日のわたしをぐうっと勇気づけてくれたので、文字に起こしちゃった。
言葉にしておくと、これが嬉しいなあと思う。
過去出会ったものやその時に感じたことが時空をこえて、ときに当時よりもまぶしく光を注いでくれるのが。
やっぱり、圧倒的な内側の「好き」は、外を排しないということがわかった。
それどころか、たった一つ自分が世界へとまっすぐひらける窓さえあれば、そのほかがどんなにダメダメだったとしても、世界とつながることができるし、まちがえないし、かたくなになることもない。
なぜなら、すべてが「宇宙のことば」で書かれているから。
そこにアクセスして幸せでいると、勝手に周り(たとえばすし屋やTVマン)が自分自身(当人)に対してもまっすぐになっていく、そーゆうものなんだな。安心して偏ればいい。ルートはお任せなんだ。
私たちは「おさかな博士になりたいの?じゃあ魚のことはいったん置いておいて受験勉強をしましょう」とルートを決めてしまう。脳は、過去しか知らないから。
でもその衝動は、愛は、源から直で湧いてくるものだから。
誰もが、というかほとんどの人にはミー坊(注:のん演じるさかなクン)のお母さんがいないから、「打算のない好き」にかまけることから離れてしまう。
「こんなことして何になる?」という声を、自分の中に住まわせてしまう。
でも、でも、私はもう大人なので、自分で自分の中に、あのミー坊の母的な声をひびかせることができるんだ。
さかなクンの帽子は、「何ソレ?あやしい」「やめた方がいい」という横からの手、世間の腕にはけっしてもがれないけれども、同じ道を歩むものに対しては、いともかんたんにゆずられていくバトンだ。私たちはそうやって、命や知恵を一手ずつつないできたのだ。
光のカーペット、だなあ。あの物語も。(魚を)しめるのと、殺すのはちがう。そして「うちの海」というものはない。なんの算段もなく、ただやってきたことが、あるきっかけで突然に力になる、そういうことなんだ。
“ただ好き”に、“ただ知りたい”に、もっともっと感(かま)けよう。
真っ青な無限の海に潜るんだ。
仕事になるのか?お金になるのか?バカにされるか?評価されるか?
そんな幻が、わたしたちに追い付かないほどの深さまで。
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