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パルテノン多摩ミュージアムと日野郷土資料館とくにたち郷土文化館ですよ

3箇所とも11日です。
各々多摩市・日野市・国立市の郷土資料館で、順にだいたい南から北に並んでいます。
まずパルテノン多摩まで南下し、順に多摩モノレールで辿っていきました。例によって全て地質・化石展示が目当てなのですが、多摩と国立は郷土展示としては地質の内容が充実していますし、日野は内容は絞られているのですがここ以外で見ることのできないヒノクジラという大型鯨類の化石があります。
同じ多摩県内の地質展示でも明確に違いがあります。それは土地ごとに地形や川との関係を表しているためです。
こういう住宅街では特に、郷土に関する展示というものはその土地の人達のためのものなのでよその土地からやってきて見学するということはあまり想定されていないのですが、南から一気に順番に見ていくことで土地の違いがよく分かり、意義の深いものとなりました。
そして、その見学を多摩モノレールからの車窓と徒歩の道のりが補強してくれました。

今回、公開できる写真が少ないため、文章中心で展示内容を解説することになります。


パルテノン多摩ミュージアム 多摩丘陵と人々

郷土資料館らしからぬ名前は劇場であるパルテノン多摩の中にある展示コーナーだからです。
展示の撮影は可能ですが、公開は不可となっています。
ただミュージアム展示ガイドアプリ「ポケット学芸員」をスマホに入れてパルテノン多摩ミュージアムを検索すれば解説の内容と掲示されている図解は全て見ることができてしまいます。

ここの展示の特徴は地形と地質をしっかり展示していることと、郷土展示によくある構成として地質の展示が終わったら地域の人々の歴史に移るのですがその歴史の半分近くを20世紀後半が占めていることです。
なぜかというと、やはり多摩市の歴史にとって多摩ニュータウンの開発が重大だからなのですね。
多摩市に地質の知見が蓄積されたのは多摩ニュータウンを開発するにあたって土地を切り拓くときに地質を把握する必要があったからのようです。ここの地質標本の中で特に目立っているのもパルテノン多摩建設当時に地質調査を行ったときのボーリング試料です。
20世紀後半の展示ももちろん多摩ニュータウンの計画から現状までです。行政目線だけでなく住民目線の、初期の未整備な状態での苦労や工夫も語られています。
多摩ニュータウン開発の前後を比較した立体地図もあり、どこにどのような大きさの建物があるかを見るとやはり丘の上に後から団地が立てられているなど、地形に対する理解も深まります。

ここではその多摩ニュータウンを開発するまで多摩市の住民の増加を抑えていた多摩丘陵とはどういう地形なのかについての話を。
まず関東平野一帯が遠浅の海に覆われていた頃は、その海底や、海岸近くの氾濫原に泥岩や砂岩が堆積していました。これが南関東のやや深いところに横たわっている上総(かずさ)層群です。前回の狭山市立博物館の化石もこの一部から発見されたものですね。
その後、海底が持ち上がり上総層群が露出しました。(西ほど高く持ち上がったのでそれが川に削られたことで西ほど古い地層が露出したようです。)そこに後に相模川になる川(古相模川)が礫(川に流された石)を堆積させてから南に進路を変えていきました。この礫の層を御殿場礫層といいます。
さらに箱根の火山や富士山が噴火して火山灰が積もり、関東ローム層となって御殿場礫層を覆います。
そして、雨により細かい小川ができて関東ローム層と御殿場礫層がところどころ削られて谷ができ、丘と谷の違いができました。これが多摩丘陵です。
谷底には堆積物が溜まって谷底が平らになりました。これを谷戸といい、元々は谷戸だけが居住や耕作に用いられていたのを多摩ニュータウンの開発が変えてしまったようです。
……というのを、ここではしっかり図示した後、人々が土地を利用してきた歴史として示しているわけです。

なお、自然史的には生き物のことも気になるのですがそこには歴史展示の前半で触れられていて、開発前の里山での生活に深く関わっていた雑木林の植物やアズマネザサなどが紹介されています。また明治天皇の御猟場となっていたことも重要で、狩猟対象であるウサギやキジは保護され、その天敵であるテンや猛禽類などは駆除されていました。今でもテンは多摩丘陵で見られないわけです。

町の歴史が地質に強く規定されてきたからこそ地質についてきちんと学べる施設ができたのだということを理解した上で、多摩センター駅から多摩モノレールに乗って次の目的地・日野へ。
すると、緑地や街並みを見下ろす車窓がまさに展示内容どおりの多摩丘陵の姿であることがよく分かります。
斜面を下から住宅が覆って段差なく緑地に続いていますし、谷間にはかつて周りを削ったであろう小川が流れています。風景から読み取れる内容が大きく変わってしまった体験でした。
これを見るためだけでも、パルテノン多摩ミュージアムの見学後はモノレールに乗ることをお勧めしたいです。

日野郷土資料館 大河が暴いたクジラの正体

多摩動物公園のそばを通り、多摩丘陵から抜けないまま日野郷土資料館の最寄り駅・程久保に到着します。

駅のそばの小川です。これも多摩丘陵の丘と谷をつくったのでしょうか。今はコンクリ護岸ですが……。一応生き物の気配はあります。
あ、今回風景の写真はスマホだったりカメラだったりします。

駅から郷土資料館に向かう道もまさに多摩丘陵という感じで、割と急な坂道が複雑に組み合わさり、一部は階段になっています。
道の両脇に直接民家が並んでいることも実は重要な特徴なのですが、これについてはまた後程。

郷土資料館の前から見下ろす風景。広い斜面に宅地が広がり緑地と入り混じっているのが分かります。

こちらが日野市立郷土資料館、というかこの建物自体は日野市立教育センターで、この中のいくつかの部屋が郷土資料館です。
この建物は小学校の校舎を転用したものだそうです。
……小学校の校舎は私がよく見る人体模型が現れる悪夢の舞台でもあるので、無駄に身構えて物陰に警戒してしまったのですが、未だに処分していないなんてことないですよね。ね?(処分していない上で校舎を転用している水族館や博物館を知っているので気が抜けない)

まあそんなド杞憂によるデバフも職員のかたに非常に親切に資料を貸し出していただいたおかげでほぼ帳消しになりまして。

写真は詳細でないものを数枚なら掲載してもよいとのことでした。つまり、もし気になるかたはぜひ詳細をご自分の目で確かめにきてください!

ではさっそくその気になっていた展示物を。

ヒノクジラと呼ばれる大型鯨類の上顎の一部です。長さ1.5mほどある、大きく細長い板状の化石です。
ヒノクジラで検索するとヒゲクジラ類であるとかアキシマクジラと同種と思われるといった記述が多いのですが、ここではマッコウクジラの仲間と掲示されています。またアキシマエンシスに掲示されている当時の環境を復元したイラストでも、ヒノクジラはマッコウクジラの姿で描かれています。
これは当初アキシマクジラによる先入観もあってかヒゲクジラ類だと考えられていたものの、近年になって断面形状や多孔質の組織の様子と大きさから、マッコウクジラかその近縁種と考えるのが適切である、ということになったのです。(この検討の内容は資料館には掲示されていないのでご注意ください。)
詳しくは実際にご覧いただければと思いますが、やはりこれがヒゲクジラ類ではなくマッコウクジラの近縁種であることが確かめられて大収穫でした。
200万年近く前の多摩の海には、コククジラの近縁種であるアキシマクジラだけでなくマッコウクジラの近縁種も立ち寄っていたのです。この両者は餌にしていた生き物が異なりますから、それだけ幅広い生き物が生息していたのかもしれません。
チバニアン展のときも同じようなことを言いましたが、なんと豊かな世界だったのでしょう。

他にも、このアケボノゾウの牙と、アケボノゾウの足跡のレプリカがあります。これらは日野市内の、多摩川とその支流の浅川の河川敷で発見されたものです。
先程、多摩丘陵は上から(表土を除いて)関東ローム層、御殿場礫層、上総層群の順に堆積しているところが削れてできたと書きましたが、化石が含まれているのは上総層群なので上の2つの層が除かれないと化石が見付かりません。
パルテノン多摩では多摩丘陵の崖やボーリング調査の試料から化石が見付かったという展示でしたが、ヒノクジラやアケボノゾウ、それにアキシマエンシスのときに示したとおりアキシマクジラなどの昭島市の化石も、川が関東ローム層と御殿場礫層を大きく削ったために発見できるようになったのです。
多摩丘陵は細かな小川の働きで少しずつ削られてできましたが、今度は大きな川の働きでもっと大幅に土地が削られて現れたものに出会えました。

敷地内には化石達と同じ年代に栄えていたメタセコイア。ある意味、すっかり人里の植物になっています。

多摩丘陵の斜面に貼り付いたダイナミックな高低差のある町を程久保駅まで戻り、再び多摩モノレールで北へ。

すると、浅川を渡ったとたん周囲の景色は一変しました。斜面に連なる町からもっとずっと平坦な町に変わったのです。
多摩丘陵の谷戸を流れる小さな川よりずっと大きな浅川や多摩川の働きに違いありません。
モノレールの線路が目的の方向から大きく逸れていく万願寺駅で降りて、徒歩で次の目的地を目指しながら地形を確認していきます。

くにたち郷土文化館 穏やかな河岸段丘

道はすぐに多摩川を渡る長い橋に変わります。

橋から南を振り返ると多摩丘陵の稜線が見えますが、

行く先はもう真っ平らです。木々の多いところが帯状に見えますが、あれは「崖線」かもしれません。

多摩川と浅川より南は小川に少しずつ削られて多摩丘陵になりましたが、多摩川より北はかつての多摩川が北から移動しながら削ったので広い範囲が平らになっています。
しかも、完全に滑らかに削ったのではなく地盤の隆起などにより流路を段階的に変えながら削ったため、幅広い階段状になっています。こういう段の付いた土地を河岸段丘といい、多摩の河岸段丘は武蔵野台地といいます。
そして、この段になったところを崖線といい、住宅地の中にあっても木々が多く残っていることが多いのです。

崖線……、土地の名前としては「ハケ」と呼ぶことが多いのですが、地層があらわになっているので土地にしみこんだ水が湧水としてしみ出します。

郷土文化館へと進む道自体はなだらかな登り坂なのですが、周囲は道の行き先と同じ高さの台になっています。崖線を横断する道を作る際にハケ上の側を削って坂にしたのでしょう。坂に沿って住宅が並んでいた多摩丘陵とは大きく異なる造りです。

坂の途中から逸れて緑に囲まれた静かな空間に、くにたち郷土文化館の建物がちょっと浮世離れした感じで現れます。

現れますと書きましたが、これはすでに敷地内のベンチから撮影しています。万願寺からいかにもいいもの見ながら歩いたみたいに書いていますけれど、それより前に多摩丘陵の坂を上り下りしていますし、万願寺駅からも割と距離があったんですね。毎度のことですが同じところを見学するにしてもこんなに歩けるかどうかにはご注意ください。

ベンチの屋根にはブドウのつるが。農業関係の活動もしているようです。

ここは撮影禁止と掲示があるもの(主に他館から提供されたもの)を除いて撮影・掲載共に自由です。でもまあバランスを欠くので自然史展示以外はあまり載せないようにしておきましょうか。

外光がたっぷり入る廊下の床には、

すでに展示が。
展示室も廊下の奥から地下に進んだところにあります。

国立なのに府中?東に進んで府中に流れていく農業用水なのです。府中では暗渠ですが国立ではたくさんの生き物の住処となっているようです。

テーマごとに分かれていて見やすく解説されています。

ハケには鳥も多様なようです。

落ち着いた展示室。やはりほとんどは歴史展示です。

河岸段丘の地形がよく分かる国立市の模型です。近隣の多くの市がこのような段状の地形になっています。

地層の剥ぎ取り標本です。(実はパルテノン多摩にもありましたが様子が少し違います。)
土地の表面の黒土から境目なく関東ローム層に移り、粘土質砂層を挟んで礫層になります。
このような地層や地形の形成の歴史は地球全体の歴史や海岸線の変化と合わせて、一つひとつの段丘や崖線が形成された年代まで詳しく解説されています。

150万年前の貝の化石、これも多摩川と緑川の河川敷から発掘されたものです。国立市内には貝化石が現れるハケもあるようです。

河川敷やハケ、段丘の植物が図示されています。

ここから先は旧石器時代、縄文時代と人々の歴史に移っていきますが、端々に河岸段丘、およびハケの湧水を利用した暮らしの様子が見られます。

江戸時代の土地利用を再現した模型では、水が豊富なハケ下に水田、ハケ上に畑、さらに奥に集落があるのが確認できます。すでにハケが特に木々が多くなっていますね。

湧水と違って多摩川はときに氾濫を起こす危険な存在でしたが、盛んにアユ漁が行われるなど恩恵もあったようです。

刊行物も参照すると、国立市内にはハケや湧水を中心とした環境が残されている場所が多いらしいです。今度はまたそちらを見に行きたいものです。

今回見ていった場所の中でいうと、私が住んでいる土地は国立と同じ多摩川の北側の河岸段丘です。バスで駅まで移動し、河岸段丘から離れることなく帰路に着きました。

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