超短編 ヤブノウサギとヘルマンリクガメ

「おい、カメ」
 広い野原を横切る道の端で、ヘルマンリクガメはヤブノウサギに呼び止められた。ヤブノウサギの声は思い詰めた調子だが、目は横向きなので表情は何とも読めない。
「何だウサギ。この葉はもう食い終わるからお前の分はないぞ」
 ちょうど柔らかい草をすっかり食いちぎるところであった。
「いやっ……、惜しいは惜しいが、いや、そうじゃない」
 ヤブノウサギが続けた言葉で、ヘルマンリクガメの葉を噛み切る口が止まった。
「お前にクソ速い疑惑が出ている」
「あれだけ寝ててまだ寝不足なのかお前」
「違う違う違う、さすがにそれはない」
 ヤブノウサギは大きく息をついて話し出した。
「俺がちょっと草藪に身を隠してた隙に、お前は三つ手前の丘にいたはずなのにのこのこ現れたり、湖の向こうから出てきたり、森を抜けたりしている」
「ああ?それはお前が寝」
「とにかく」
 ヘルマンリクガメの反論はヤブノウサギの力のこもった声にさえぎられた。
「俺と勝負してくれ。お前の走りを実際に俺に見せてくれ」
「は?俺に走れっつったってお前」
 ヤブノウサギはその長い耳を野原のずっと向こうにしか向けていない。
「あの大きなオリーブ……、いや。その倍向こうの杉の木まで先に着いたほうが勝ちだ」
「やらねえぞ。お前のほうが速いに決まって」
「よいドンッ!!」
 すでにヤブノウサギの姿は消えていた。
 ヘルマンリクガメには、ヤブノウサギの世迷言に付き合う気は自分の一番小さな鱗のそのまた十分の一ほどもなかった。そういうことがあったと覚えている必要さえないと思っていた。
 しかし、ヤブノウサギが方向を指し示したものだから、つられてその方向に気が向いてしまった。その杉の根元に行けばちょうど今の季節は良い草の実が手に入る。
 動きの遅いヘルマンリクガメにとっては一日の糧を得るのに躊躇している暇などない。その四肢は自然に動き出していた。
 やがて、一度は目標に選ばれたオリーブの木に近付いたとき。
 さっき飛び出したはずのヤブノウサギがそこにうずくまっていることに気付いた。
「ほらみろ、やっぱりお前が」
「シッ!!こっちを向くな!!」
 ヤブノウサギの剣幕は鋭い。
「詰んだ」
「詰んだあ?」
「首だけ傾けて上を見ろ」
 言われたとおりに首をねじって右目を上に向けると、天頂に舞ういくつかの影があった。
 モモアカノスリである。
「何だお前、あんなザコ鳥が怖いのか。意外と子供っぽいな」
「あんなの怖いのに大人も子供もねえだろ……」
 成熟したヘルマンリクガメにはさして脅威ではなかったが、ヤブノウサギはもはやその場からびくともしない構えであった。
「平気だっていうなら俺を追い越していけ」
「追い越してるつもりもないけどな。じゃあ俺は行くぞ」
「いかにも重くて邪魔そうなお前の甲羅、今分かったぞ……。その甲羅こそがお前の走りに余裕をもたらして」
 ヤブノウサギが何かブツブツ言っているのも、進んでいるうちに聞こえなくなった。
 そして、最終的に目標になっていた杉の木を通り過ぎて。
 夢中で草の実をついばんでいると、その脇を突風が吹き抜けた。
 その風からヤブノウサギの声がした。
「ああーーーー先に着いてたか!!やっぱりお前のほうが速かったなカメェェェッーーーー!!」
 そう叫びながらヤブノウサギは駆け抜けていった。
「明らかにお前が一番速いだろ……、あ」
 ヤブノウサギより大幅に遅れてアカギツネが歩いてきた。はあはあと息をついて、足取りには力がない。
「やれやれ」
 ヘルマンリクガメは頭と手足を甲羅に引っ込めた。アカギツネは石くれでも見るような期待外れの目線を浴びせて去っていった。

*****

Twitterの凍結が解除されないモヤモヤの勢いで、頭の中にあった「ウサギとカメって割と両者の生態に噛み合ってるよな……」と思って考えていたものを一発出ししました。細部は実際の動物の生態と合致していない恐れがありますのであしからず。

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