私なりの唯識
※この記事は『大阪歴史倶楽部』2022年5月8日の記事をこちらへ移動させたものです。
九條です。
私は古代仏教である奈良仏教(南都六宗)のうちの法相宗の信者なのですが、この法相宗の教えは「唯識」という哲学的な思想から成り立っています。
たとえば…
私が見ている信号の青色と、私の隣に立っている人が見ている信号の青色は、同じ青色だとは限りません。
自分が見ている風景と、自分の隣にいる人が見ている風景が同じ風景だとは限りません。
自分にとっての善や正義が、他人においても善や正義だとは限りません。
また、平時では人の命を奪うことは重罪だけれども、戦時では自分が1人の兵士となって敵兵の命を奪うことは罪に問われません。
このように、人の認識や価値観や世界観というものは、人それぞれに違い、またその時その時における時代や社会の環境によっても全く異なってきます。
すなわち、私たち人が認識しているこの世界は人の認識の内側にある不確実な世界であり(私達は人ですから)、そこから一歩も人としての認識の外側へ出ることはできないのです。
つまりは、私達が認識しているこの世の全ては人の認識作用によって成り立っている世界ですから、私たちが「客観的事実」だと認識しているその「客観的事実」も人の認識の内側にあるものなので、それは間違いなく人の「主観的判断」の一部であり、そもそもこの世に絶対的な「客観的事実」などは存在しません。
そう考えると、ひとりひとりの価値観や世界観は異なるのですから、だからこそ、ひとりひとりの価値観や世界観を大切にし互いに尊重しなければいけません。
自分にとっての「正義」や「善」や「客観的事実」は、それは自分の認識の内側(心のなか)だけでの「正義」であり「善」であり「主観」であることを思い知らなければならないのです。
多くの視点をもって柔軟に物事を考えることが必要であり、自分の価値観に固執して物事を決めつけたり断定したりしてはならないのです。
これが私なりに理解しはじめている「唯識」という仏教思想の考えかたです。
ちょっと哲学的な話をしてみました。^_^
©2022 九條正博(Masahiro Kujoh)
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