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【小説】喫茶、憩い(11891字)

 私は落ちぶれた小説家だ。

 若い頃は、それなりに売れた。雑誌に連載を何本か持った事もあったし、一度だけ新聞に連載させてもらった事もある。

 しかし、今の私には若い頃のバイタリティも無く、アイディアも無い。残った脳みそは搾りかす程度に思え、今の新進気鋭の若手が新作を刊行する度に怯えている。

 先日、久しぶりに会った担当編集に、「先生もそろそろ新作を出されては?」と勧められた。その担当編集は若手の作家も何人か担当しており、やはり若いと新しいものを創り出すスピードが桁違いだという。

 「いやぁ、やっぱり若いっていいですねぇ。僕の方がついて行けない時もありますよ。勢いが、もう。」

 付き合いが長いその担当は、確か二人の子持ちだったはず。意義ある仕事に邁進し、家に帰れば可愛い息子と温かい食事を作ってくれる嫁さんが待っている。

 それが私ときたら、どうだ。若い頃から引きこもりがちな生活を過ごし、たまに外に出るといっても取材活動。恋愛に発展しそうな関係はおろか、若い女性とおしゃべりするお店――ましてやちょっといかがわしい感じの店に足を踏み入れる度胸もなく。

 結果こんな、五十路を待つだけの小汚いおっさんが出来上がる。

 パソコンのウインドウに光る真っ白いページの前で気が済むまで頭を抱えては、切腹前の武士の心地で意識をスマホや動画配信サービスに移し、夜はコンビニ弁当で腹を満たしてまた白紙のパソコンの前で悪あがきをしながら眠りにつき、翌朝目覚めて目の前のウインドウに何の物語も出来上がっていない事に落胆しては、からすの行水程度の入浴をする生活。こんな人間に、息をしている価値はあるのか。いや、これを人間と呼んでいいのか。誰か教えてくれ。

 今日も今日とて、数週間前からコピー&ペーストしてきたかの様な一日が始まった。ウインドウの白い紙にようやっと書き出してみるものの、一、二行打ち込んですぐに削除する。曲がりなりにもかつては『ミステリーの金字塔』の名を欲しいままにしていた私が、突然粉砂糖の様な愛などを説いたところで、若手の連中や編集達に後ろ指を指されるに違いない。「落ちぶれたものだ」と。

 伸びて来た無精ひげを剃り整える気にもならず、昼下がりに私はほとんど部屋着のスウェット姿のままふらりと街に出た。気分転換の名を借りた現実逃避だ。

 若い頃に何作か飛ばしたとはいえ、芸能人のお宅訪問番組で見る様な豪邸に住みかえる気は私には毛頭なかった。その代わり、田舎の両親が住む実家をフルリフォームして、長年の恩を返した。私自身はといえば、編集者との打ち合わせや取材に行く時の利便性を考え、今まで通り田舎から離れた都会の片隅にある、高くも無いが安くも無い1LDKのアパートに暮らしている。

 アパートのすぐ裏には電車が通っている。決して閑静な住宅街とは言えず、むしろ統一感のないゴミゴミとした印象を与える通りだった。それでもゴミ置き場は近いし、廃品回収の軽トラックも定期的に通り、線路を渡って少し歩いた所には毎晩お世話になっているコンビニがある。生活に全く不自由は無く、たまに自分を許した時には、タオルを入れた洗面器を持って、十分程歩いて古き良き銭湯に行ったりもした。

 今日は銭湯に行く道を途中で折れて、うらうらと歩いた。働き盛りの同年代がオフィスで働いているであろう時間に、スウェット姿の小汚いおっさんが街をぶらついているのは、明らかに不審者極まりない光景である。

 道が普段あまり見なれないものになっていくと、不意にコーヒーのいい香りが漂ってきた。それから微かに聞こえる、楽しそうな笑い声。コーヒーの香りを追いかけて右手を見ると、カントリー調の外観の建物に行き当たる。道に面した小窓が少しだけ開いていて、そこからコーヒーの香りと賑やかな笑い声が微かに聞こえてきた。

 両手をポケットに突っこんだまま、看板を見上げる。『喫茶、憩い』。

 こんな所に喫茶店なんて、あったんだな。尤も、私が知らなくても無理はない。昼日中の外出は、本当に久しぶりだった。

 それにしても『喫茶』と『憩い』の間に『、』があるのはどういう事だろう。句読点は一般的に文章の中でしかその意味を持たず、喫茶店の店名に使われるには些か似つかわしくない。

 もしかして、喫茶『店』と句読『点』をかけたのだろうか。店主はオヤジギャグしか言わないおっさんか、オヤジギャグをよく言ってしまうおばさんのどちらかに違いない。

 勝手に納得した私は、気づくとドアを押していた。カラン、カランと古く懐かしいドアベルの音が迎える。店内には、カウンターで並んではしゃいでいる妙齢のおばさん達と、その会話に加わって涙が出るほどに笑い転げている若い女の子がいた。

 女の子が私に気づき、目じりに溜まった涙を拭いながら私に声をかけた。「いらっしゃいませ、お好きな席にどうぞ!」

 はつらつとした笑顔を湛えた少女だった。私が手近な席に座る様子を見せると、女の子は、「今、お水とメニューをお持ちしますね!」と言ってぱたぱたとカウンターの奥に消える。カウンターを並んで占拠しているおばさま方が、突然入ってきた珍客を物珍しそうな目でジロジロと見た。くそ、おばさんってのは、何でいつもこうなんだ…。人の事なんか放っておけばいいのに…。私がジロジロと見分されて面白くないという気持ちを伝える為に、そのおばさま達を睨みつけると、彼女たちは意外にも友好的ににっこりと笑って、こちらに手を振って見せた。

 私が毒気を抜かれた面持ちで呆気に取られていると、あの女の子がメニューと水を持って来た。近くで見ると思った通りに若い、肌がプリプリしている…と、考えたくもないのに、今の時代訴えられても文句が言えない考えが頭をもたげた。年を取るとは、こういう事だ。書きたい新作のネタも思い浮かばないのに、こういった毒にも薬にもならない、くだらない思考しか出てこなくなる。年を取らなくなる薬は何処かにないものか。

 「改めまして、いらっしゃいませ!『喫茶、憩い』へようこそ。」

 私がメニューを開いても女の子は戻る気配を見せず、それどころかテーブルを挟んで私の向かいの席に腰を落ち着けた。

 「うちのお店は全部おすすめなんですよ!メニュー全部美味しいんだけど、特にこのホットケーキはおすすめですよ!」

 そう言っている彼女は、美味しそうなホットケーキの写真を見てよだれを垂らしている様に見える。お腹が空いているのだろうか…。バイトの子、というよりは、店主の親戚の手伝いの子なのだろう。店主はきっと、閑古鳥が鳴いたこの店に飽き飽きして昼食と偽って店を出て、競馬にでも興じているのだ。こんな物騒な時代に若い女の子一人に店番を任せて…。

 ―と、いけないいけない。どうしてこう、小説家っていう生き物はついつい人の物語を勝手に作り上げて妄想に耽る悲しくも失礼極まりない性を持っているのだ。この店に閑古鳥は鳴いていないし、店主が競馬に没頭してるという証拠も無い。

 まったく、どうしようもない奴だと自分を叱咤してメニューに意識を戻すと、メニューの一番最初に書かれている、文字だけの注文が気になった。他のメニューは、コーヒーやココアにでさえも写真がついているというのに。

 そこに書かれているのは「今日のおすすめ」。食べ物屋ではありふれた文字だ。昔は洋食屋などで食事をする時は大抵これを選んでいた。大体の店にとってその文言は『日替わりランチ』とほとんど同じ意味を持ったりする。

 メニューを指さして女の子に見せながら、「今日のおすすめ、なんですか」と聞いた私に、女の子は難しい顔を見せた。顔をぐっと近づけて、こう言った。

 「お客さん、うちのお店初めてですよね?うちのおすすめは他の店とは少し違いますけど、それでいいでいすか?」

 「えっ…?は、はぁ…」訳も分からないままに私は返事をした。女子高生(くらいに見える少女)が凄んでいるのは結局、「うちの店のおすすめは一味違うよ」と言う事だと思ったからだ。それ以外に考えようが無い。

 「…では、少しお待ちください」にっこりと笑った彼女はカウンターの向こう側へ戻った。テキパキと慣れた手つきで調理を始める。まだ注文したつもりではなかったのだが、自分の子どもであってもおかしくない年齢の子がその気になっているのにそれを止める気にもならず、私はゆったりと背もたれに体を預けた。

 それにしても、親戚の手伝いの子が店で調理を?キッチンを見て少し不思議に思ったその時、おばさまの一人がニコニコした顔で席を移動し、先ほど少女が座った席に腰を落ち着けた。

 「あんた、ここら辺の人?」

 「えっ――ええ……」

 ハードボイルドなガンマン達が集まる酒場での会話の糸口の様な質問だった。『あんた、生まれは?』『……コロラドだ』『コロラドか。悪くねえ』ガンマン達はそうして酒を交わす。小学生の頃、西部劇映画で訳も分からずにそのやり取りを観ていたが、その疑問は今も尚消える事が無かった。

 おばさまはにっこり笑った。私は何を言われるかと――例えばこの時間帯の代表的質問「失礼ですけど、お仕事は?」――戦々恐々としたが、おばさまが口にした言葉は、意外なものだった。

 「このお店、素敵でしょう。私たち、いつもここで女子会してるんですよ」

 おばさまがカウンターの仲間たちを振り返って、「ねぇ~?」と同意の声をかけると、おばさまB、C、Dがまたも賑やかに喋り出す。

 「そうそう、『女子』会ね!」

 「中身は旦那や姑の愚痴ばっかりの女子会ね!」

 その返答におばさまAも派手に笑って、その笑いが納まる頃、カウンターの中から女の子が料理の手を止めずに、「頑張る女性はいつまでたっても『女子』ですよ」と柔和な声で言った。

 「やさしいねえ、憩(いこい)ちゃん!」

 「あら、その言葉、お勘定に入らないわよね?」

 「あら、やだ、ちょっと」おばさま達はまた笑い出す。蚊帳の外の私は、ただ水で喉を潤すばかりだ。飲み過ぎて、量が底を尽きてくると、私の目の前に座ったおばさまAが、カウンターの上にあったピッチャーを持ってきて中身を注いでくれた。差し出されたコップを受け取り、私は軽く頭を下げる。 

 「それで、今日は何でまたこんな所に?」

 ほら、来た。詮索好きなおばさまの質問。私は愛想笑いを作った。「雰囲気の良さそうなお店があるな、と思ったら、コーヒーのいい香りとマダム達の楽しそうな笑い声が聞こえてきて、つい、ね」

 カウンターのおばさま達は私の言葉に気を良くした様だ。しかし私の目を見据えるおばさまAは違った。「……本当に、それだけ?」

 「と、言いますと?」

 「あんたの顔に書いてあるからさ。『最近、うまくいってない』って。あたしたちみたいな常連以外――ううん、あたしたち常連でさえも、ここのお店には、最近うまくいってない人たちが集まってくる。そう言う事さ」

 「…そんな事……」反論しようとして、材料が無い事に気が付いた。確かに今の私はうまくいっているか、と言われればそうではない。今だってここに行きついた理由は、頭を捻ってこねくり回しても一向に出てくる気配が無い新作小説の事を考えるのに、疲れ果てたからでは無かったのか。

 「こんな時間にこんな所にいるって事は、普通の仕事をしてるんじゃなさそうだね…。しかし服装を見る限り、どうも仕事着って感じでもない」おばさまAは、私の着ているスウェットを見て言った。

 おばさまAは知る由もないが、私は自室で執筆する時、専らこの部屋着であるスウェットを着用している。だからこのスウェットは、私の部屋着でありながら仕事着と言っても過言ではない。

 「引きこもりにしてはこんな時間に外に出てきてるしねぇ…もしかして、リストラにでもあったかい?」

 状態としては『引きこもり』の方が近いのだが、正直な所を言うのは面倒なのでやめておいた。小説として少し飛ばしたと言ってもおばさまの大好きなメロドラマ化された事は一度も無いし、新聞連載も遠い昔に一度だけ。名前を言っても聞いた事無い、もしくは喉まで出かかってるけどどういう作品か思い出せない、と言われるのがオチだ。

 確かに身なりについては、気にしなさすぎたかな、と少し反省した。こんな所に入る予定は無かったからといって、部屋着のスウェットと伸び放題の無精ひげのままでは心証が確かに良くは無いのも事実。しばらく床屋にも行っていないし、明日理容室で髪から全部整えてもらおうか。

 そんな会話をしたからか、やっと自分の懐具合を思い出した。出かける前に財布は持ったが、そう言えば持ち合わせがほとんど無かった気がする。もともとそんなに出歩かない性分であったし、消費税が上がる前に早めに『キャッシュレス』の波に乗っておいた。今、買い物の際はもともと持っていたクレジットカードか、プリペイドの電子マネーを使う様にしている。今どきは自販機の買い物でさえも電子マネーで済ませられるので、現金類を持ち歩く習慣はとうのとっくに消えていた。

 「はい、お待ちどおさま」

 そんな私の思考を知る由も無く、女の子がお盆一杯に載った『本日のおすすめ』を持ってきて、テーブルに置いた。ほかほかの白いご飯に脂ののった鮭の切り身、黄金色に光る卵焼きに大根おろし、見るからにさっぱりとした葉物の浅漬け、小鉢にきんぴらごぼうと具だくさんの味噌汁、という完璧な、そして妙な取り合わせだった。…というか――。

 「…多くないですか?」喫茶店らしからぬ食材とその量に私は目を疑った。これでは喫茶店でなく定食屋だ。一般的にコーヒーを楽しむ所に合う軽食といえば、トーストとか、ホットケーキとかそんな感じではないのか。

 不思議に眉を顰める私の顔とは裏腹に、胃袋が美味しそうな匂いに耐えかねずに、ぐう、と鳴った。コンビニ食で暮らすのに慣れ切って、こんな温かいご馳走にありついたのは久しぶりだ。目の前に座っているおばさまと傍らに立っている少女がからからと笑う。少女はひとしきり笑った後、こう言った。「だってお客さん、栄養無さそうな顔してたから」

 少女はその場所を離れずに「さぁ、さぁ」と言って私に箸を握らせる。私の向かいの席のおばさまも声を合わせて、温かい料理をすすめてきた。

 …まあ、財布にクレジットカードも電子マネーカードも入っているし、ここまで豪華な料理を出されて無下には出来まい。私は腹をくくり、両手を合わせた。「いただきます」

 ほかほかと湯気を立てるご飯を手に取りたい気持ちを抑え、まず味噌汁を取り上げる。母に教えられた家庭の味の鉄則は、『まずは汁物を一口すすりなさい』だ。ふうふうと冷ましてから音を立てて一口啜る。コンビニのカップ味噌汁では決して出せない深み。五臓六腑に染み渡るとはまさにこの事だ。

 味噌汁の具はにんじん、大根、油揚げに、大きく切った長ネギ。こんなにしっかりとした味噌汁を食べたのは、十数年前実家に帰った時以来だ。母も年のせいかめっきり料理を作らなくなり、二年前に帰省した時に出て来た献立は出前の寿司だった。今は懐かしい味噌汁の味は、私の妹が引き継いでいる。

 家庭の味は三角食べが基本。味噌汁の旨味を堪能した舌で、今度は白いご飯をぱくりとやる。湯気が口内で悪さをするので、はふはふとして彼らの逃げ道を作った。そこに葉物の浅漬けを取り、米の上に乗せてまとめて一口。さっぱりとした塩の味が米の旨味を引き立てつつ、シャリシャリと違った食感で楽しませてくれる。

 大根おろしを卵焼きに乗せて、ひと切れ頬張る。なんと、出汁巻きだ。出汁の旨味と大根おろしのさっぱり感が相まって、米が進む。それらのおかずと鮮やかな紅色をした鮭と、作り置きなのだろうか、味がしっかり染みたきんぴらごぼうを前に、どんどんと白米は胃の中に消えていき、紅鮭を半分残して米を平らげた時、女の子は嬉しそうに両手を差し出した。

 「ごはん、おかわりありますよ」

 私は迷わず茶碗を少女に渡した。彼女は受け取ったご飯茶碗を手にウキウキとしているようにも見える後ろ姿でキッチンに戻ると、おかわりを注いで戻ってきた。返された茶碗は彼女の心情を表現した様に大盛りだった。

 恥ずかしくも、夢中で食べてしまった。満足した私は、まっさらになった茶碗の上に箸を揃えて置いて手を合わせた。「ごちそうさまでした……」

 すっかり満足した心地で背もたれに体を預けると、少女が温かいコーヒーを持って来た。私が驚いて、「頼んでないですよ」と言うと少女はにっこり笑った。「こちらはセットのコーヒーですよ」

 完璧な定食メニューの後に出てくるのが、お茶ではなくコーヒー?内心首を傾げたが、そういえば、ここは喫茶店なのだという事を思い出す。

 ふわり、と立った香ばしい香りにほうっと息を吐いてコーヒーを一口飲んだ時、店内に私と少女以外の誰もいない事に気づいた。目をぱちくりさせた五十路近いおっさんの意図を組んで、女の子が教えてくれる。

 「お客さんがお食事されてる間に、松木さんたちは帰られましたよ」

 「いつの間に…全然気が付かなかったよ…」

 照れ笑いをした私に少女は、それだけお食事に集中されていたんですよね、と可愛らしく小首を傾げた。私が、お恥ずかしい…と頭を掻くと彼女は首を横に振った。

 「他の事が気にならないくらいに夢中になってもらえるなんて、作った者にはこの上なく名誉な事です。ありがとうございます」

 そう言って頭を下げた彼女は、この店に入った時とは比べ物にならないくらい大人びて見えた。大人も顔負けのこの応対力に私の方が恥ずかしくなり、私は残りのコーヒーを飲み干すと、ポケットをまさぐりながら慌ただしく席を立ちあがった。

 「美味しかった、ありがとう。ところで、おいくらでした?」

 「お値段は、お客さんが決めて下さい」

 美味しい料理、それもあんな量を平らげておいて、そんなわけにはいかない。大体、他のメニューには値段が書いてあった。トーストセット六百円。可もなく不可もない価格。このご時世には少々安すぎるかもしれない。考えた事をそのまま口に出すと、女子高生は頭を振った。

 「うちの『おすすめ』はそういうルールでやってます」

 それでも、どうしても納得できなくて、「弱ったなぁ…。お店のご主人は?」と聞くと、目の前の少女は柔らかな笑顔を見せて、一礼した。

 「申し遅れました。わたくし、当店主の小日向 憩(こひなた いこい)と申します」

 店主。この少女が?

 「店主の私が決めたルールですので、お客さんの決めた金額をお支払いいただいて、大丈夫です。『本日のおすすめ』は、『店主からお客さんにおすすめするメニュー』って事なので。言い換えれば、『お客さんの顔色を見て独断と偏見で、店主がそのお客さんにぴったりの料理を勝手に出す』って事なんです」

 聞いた事も無い不可思議なルールに、私はあんぐりと口を開けた。どうやらからかっている訳でもないらしい。私は、食材、品数から妥当だろうという金額を推量し、ポケットから取り出した財布を開いた。

 「ん~、じゃあ、千二十円。カードでお願いできます?」クレジットカードを出して見せると、少女改め店主は申し訳なさそうに眉尻を下げた。

 「も、申し訳ありません…。うち、話題の『きゃっしゅれす』に対応してなくて……」

 「嘘っ、じゃあ電子マネーも!?」

 「はい…。ごめんなさい…」 

 財布の中の小銭は三七二円。後はポケットを裏返してもびた一文も出てこない。結局それだけ払って店を出た。若い店主は嫌な顔一つしないどころか、玄関先まで丁寧に送り出してくれた。

 外はまだ明るかったが、あと一時間もすれば薄暗くなってくるだろう、という頃合い。田舎の山間は夕焼けに染まり始めた頃だろう。少し離れた市街地の喧騒が、風に乗って僅かに聞こえてくる。そのまま立ち去るのもなんだかきまり悪く、私は道路に降りながら、店主に何となく問いかけた。

 「あの、店の名前なんですけど…この、『喫茶』と『憩』の間に句読点が付くのは、何か意味があるんですか?」

 店主は振り向いて看板を見上げると、ああ、と言った。

 「特に意味は無いんですけど……やっぱり、変ですかね?」

 帰ってきた答えにある種の答えを見出して、私は涙が出る程笑ってしまった。笑い過ぎて、店主に悪い印象を与えた様だ。頬を膨れさせた女の子に、私は弁解した。「――いや…ごめんなさい。決してお店のお名前が可笑しいから笑ってしまったわけではなくて…」

 少女は「本当ですかぁ?」と疑わし気に私を見ている。

 「本当です。私なんかには考え付かない、素敵なお名前ですよ」答えながら、私の気分は秋の空の様に晴れ晴れとしていた。ここ数か月の陰鬱とした気分が、嘘の様だった。

 意味など無くて良い。私が心地よいと感じるものを表現できれば良い。物書きを志したのは、素直なその気持ち一本で突き進んで来たのではなかったのか。年を重ねるにつれ、下らぬ自尊心ばかりむくむくと育っていた様だ。

 「店主。私、実は、作家業をしているんですけれども、このお店をモデルに小説を書いてよろしいでしょうか?」

 若き店主は、エプロンのポケットから一冊の文庫本を取り出した。カバーが無く、端がボロボロになるまで読まれたのだろうその一冊は、私のデビュー作だった。

 「親子二代、楽しく読ませていただいてます。楽しみにしてますよ、暮縞(くれしま)先生」

そう、頬を赤らめて少女は言った。私は頭を下げ、もう一度温かい料理の礼を言って帰路に就いた。

 部屋に帰って愛用のノートパソコンを開く。今まで白い紙のまま保存していた画面に、次々と文字が躍った。若い頃の勢いが戻ってきたかの様だった。軽くあらすじだけ書いて担当に見せる予定だったが、気が付くとほとんど丸々書き上げてしまっていた。

 主人公は、都会の激流に疲れ果てた男。恋も楽しみも無く会社での居場所も無くなった主人公は、自殺を考える。あれこれ方法を試すがどうしても死にきれなかった主人公は、実家の田舎に帰る事に。懐かしい風景と、そこで出会った喫茶店の店主に癒された主人公が、自分の第二の人生を探していくストーリー。

 深夜にメールを送り付けて、私は久々に満足した眠りへ誘われた。

 翌朝、チャイムとドアを叩く音で目が覚めた。借金取りかというくらいにドアを叩く音の合間に、昨日メールを送った担当編集の声が聞こえる。「先生、開けて下さいよ、先生!」

「何だ、何だ…近所迷惑極まりない奴だな……」そう独り言ちてベッドから起き上がり、頭を掻いて欠伸をした。ふと、ベッドに置いたままの左手にスマホの感触がしたので、自身と同時に立ち上げてみる。今まさにドアを叩いている奴から、優に五十件を超す着信があった。

 「先生、いるんでしょ!?開けて下さいよ!」

 「ええい、うるさいな。今開ける、開けるから落ち着け」私が玄関ドアに近づきながら言うと、ドアの向こうにいる担当が途端に静かになって、子憎たらしい一言を付け足した。「なんだ、いるんじゃないですか。早く開けて下さいよ!」 

 ドアをパッと開けながら、「今起きたばかりだよ」と言おうとしたが、開けた途端に担当の奴に抱きすくめられては、そんな事を口にする冷静さは残っていない。普段人を罵る事を知らない私でさえさすがに、声を荒げた。

 「―バッ…カ野郎!私にはそういう趣味はないぞ!!」

 「違います、違いますよ、先生!ああ、でも、どうしよう!僕、嬉しくて!!」 

 大学ラグビーをやっていて、今でも昔の仲間たちと休日に集まっては走ってはトライを繰り返している担当編集に抱きすくめられては、長年引きこもりで本としか格闘してこなかった私にはどうする事も出来ない。押し倒すとかそういう気もなさそうだし、私を抱きすくめてとりあえず「やったぁ、やったぁ」と喜んでいるだけなので、しばしするがままにさせておいた。

 それにしてもこの、五十路近い男二人が抱き合っている図は誰が得をするのだろう。幸いドアは自然に閉まってくれたし、誰に見られる心配も無いが。

 「ああ、ごめんなさい。訳が分からないですよね」担当はようやく私の心境に思い至ったのか、その年輪を重ねた屈強な腕から私を解放した。「まったくだ。…どうした?」

 私が尋ねると担当は、パッと顔を明るくさせた。その表情は若い頃、出会ったばかりの彼の事を思い起こさせる。私と同年代ではあるが、彼は私の第一号のファンでもあった。新しいものを読ませるといつも目を輝かせて読んでくれたものだ。その彼が、あの時と全く同じ顔をしている。違うのは、お互い皺が増えたということだけだ。

 「送っていただいた新作、拝見しました!率直に言って、素晴らしかったです!」

 「何だ…そんな事か……」

 「何だって事は無いでしょう!ファンが長い事待ち望んだ、暮縞修二、十年ぶりの新作ですよ!これを喜ばずに、何を喜べと言うんです!」

 「そんな、こんな古い作家の新作なんて誰も…」

 「待ち望んでない、ですって!?ご冗談を!実際にこの僕が待ってたんですから、先生公認のファン第一号であるこの僕が!…先生、僕は、先生の書いた新しい物語を読むことができて、こんなに嬉しい事は無いです」

 そりゃ、君は私の担当編集だから、と言いかけた私を、彼は熱のこもった眼で遮った。

 「読者だって同じ気持ちなんです!先生が描いた新しい世界を見たいんです!先生は、ご自分はもう終わった作家だとおっしゃられてますが、そんな事ないんです!先生が気づいていらっしゃらないだけなんですよ!」



 次々と出てくる若手達に気圧されて臆病になっていたのは、私の方だった。その後私は短編集の出版を発表し、作家として復活の第一歩を踏み出した。若い頃とデビューしたての頃の短編を収録し、計三本の書き下ろしを入れて全八篇となった短編集は思いの外好評を博し、私は『復活を遂げた不死鳥作家』と仰々しい二つ名をつけられ、そのおかげでインタビューや若手との対談の仕事もちらほら舞い込んだ。

 あれよあれよという間に色々な事が決められていって、有名女優を起用して私の作品がドラマ化される事にもなった。出席した制作発表会では、原作者としての思いをとマイクを向けられ、何を言ったかろくに覚えていない。隣に座っていた主役の女優は、私が作家を志した当時から好きだった、大女優の二世だった。

 一年が過ぎ、二年が過ぎる間に、私は新作を二本発表した。目まぐるしい忙しさに私は人生二度目の引っ越しをして、都心にほど近いマンションに移り住んだ。五十路のおじさんには少々おしゃれが過ぎるかと思ったが、部屋が近くなった事を編集の奴は喜んでいる。

 担当編集が家族と暮らしているマンションの高層階に引っ越したお陰で、彼の子供たちと嫁さんは、よく私を夕食に誘ってくれるようになった。なんでも息子は、私が通っていた大学に進学したいらしい。娘は専門学校へ進み、いずれは自分の手で喫茶店を開きたいそうな。私はそれを聞いた時、真っ先に『憩』を思い出した。カントリー調の外観に、木の温もりを感じさせる店内。店主の笑顔と暖かな食事。

 その日は午後にインタビューの仕事を控えていたが、午前中は丸々開いていた。珍しく仕事は締め切り前に全て終わらせており、あとは各社担当の反応をメールで待っているだけ。久々に時間が出来たので、私の人生を変えてくれたあの場所に行こうと思った。ここからは少し離れているが、午後の予定の時間に気を付けていれば、コーヒー一杯くらい飲む時間はあるはずだ。 

 まだ変わらずに、『喫茶、憩』はその場所にあった。懐かしい、カントリー調の温もりを感じさせる門構え。そのドアを押し開けて中に入ると、昼時だというのに客は私しかいない様だった。

 「いらっしゃいませ」笑顔で出迎えてくれた店主は、少し大人びた――いいや、ほんの二年の間にすっかり大人の女性になっていた。以前来店した時は占拠されていたカウンターに私を通した。街は一年で大なり小なりの変化をしていたが、この店だけは時が止まっている様だった。

 「何にします?」問われてメニューを渡されるが、私は受け取らずに答えた。「『今日のおすすめ』でお願いします」

 出てきたのは、一杯のコーヒーだった。残念だがあまりゆっくりしている時間も無いので、私はありがたく思った。

 コーヒーを飲み干して「お代は?」と店主に問うと、「お値段は、先生がお決めください」とにっこりした。いくら払っても私の感謝の気持ちには足りなかったが、私は三万円を少女に渡した。

 店主は少し驚いた様子を見せた。この店のルールだというのにおかしなことだ。私がくすり笑うと、少女も同じく笑ってお金を受け取った。

 「ありがとうございました。またのご来店おまちしております」あの日と同じに、少女は玄関先まで私を送り出してくれた。「次にいらした時に、お話を聞かせて下さいね」

 「ええ、私の人生が二度目に変わった話、少し長くなるかもしれませんけど、聞いてくださいね」

 私が返すと店主ははつらつとしたあの笑顔で、「はいっ」と頷いて見せた。二年前と同じ少女が、そこにいた。私が取材に向かって歩き出した背中を、店主は見えなくなるまで見送ってくれた。

#cakesコンテスト2020

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