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2023年6月22日-27日のinstagramまとめ——いま「科学」について考えるための方法

 こんにちは。この前noteを初めて書いてみたのですが、やっぱり文章を書くにはそれなりに時間がかかってしまいますね。少し書くのが億劫だなと思っていたのですが、こうして無事にInstagramをまとめるマガジンを更新することができてほっとしています。

 さて、本マガジンは、普段投稿しているわたしのInstagramの投稿をまとめて、さらに書き足りない点を加筆するものです。今回は書きたいことがいろいろあるので、まとまりがなくて散漫な文章になってしまうかもしれません。あらかじめお詫びしておきます。
 今回のテーマは「科学」。科学について、文化史的に考えるための道具となる本を投稿したつもりです。科学は、文化史研究の王道テーマのうちのひとつとも言えますが、王道であるがゆえに研究も多くて困ってしまいますね。先に結論めいたことを書いておくと、「科学」を文化史的に考えるさいには、真正面から考えるのではなく、「いかに面白く迂回するか」が重要な気がします。

今週の6冊

以下に、今週投稿した6冊を列挙していきます。
①『現代思想6月号 特集・無知学/アグノトロジーとは何か』(青土社、2023年)。
②Peter Burke, Ignorance: A Global History, New Haven and London: Yale University Press, 2023.
③デボラ・ブラム『幽霊を捕まえようとした科学者たち』(文春新書、2010年)【原著2006年】。
④長山靖生『奇想科学の冒険——近代日本を騒がせた夢想家たち』(平凡社新書、2007年)。
⑤増澤知子『世界宗教の発明——ヨーロッパ普遍主義と多元性の言説』(みすず書房、2015年)【原著2005年】。
⑥タラル・アサド『世俗の形成——キリスト教、イスラム、』(みすず書房、2006年)【原著2003年】。


簡単なレビュー

以下、簡単に①-⑥について触れておきたいと思います。詳しくはinstagramの投稿を見てください。

 ①について。
『現代思想』は言わずと知れた人文系の読者御用達の雑誌ですが、これを追っておくことで、人文系のトレンドが見えてきます。今回は「無知学/アグノトロジー」ということでした。
 近年の人文学のトレンドはおおまかに、人類学系(『思想』2022年10月号で特集されたマルチスピーシーズ人類学存在論的転回等々)と、科学史系(『現代思想』2023年6月号で特集されたブリュノ・ラトゥール等)のふたつがあるかなと感じています。
 本特集は、後者である科学史・科学哲学の最新動向ととらえることが可能でしょう。本書でも言及されていますが、この分野の先導役は、ピーター・ギャリソンとの共著『客観性』(名古屋大学出版会、2021年[原著2007年])で知られるロレイン・ダストンと、『健康帝国ナチス』や『がんをつくる社会』で知られるロバート・プロクターです。両者のトークも本書に掲載されているので、こちらも必見だと思います。

 ②について。
こちらは『文化史とは何か』の著者で、今現在一番有名な文化史家といっても過言ではない、ピーター・バークの最新著作です。バークは現在85歳とのことで、非常にご高齢になっても精力的に研究活動をされているようですね。バークは2020年に『Polymath(博識家)』という本も出していますが、こちらとともに早く翻訳書が出ないかなぁと密かに期待しています。
なお付言すると、本書Ignoranceは、①の特集内の鶴田さんの論文で言及されていましたね。

 ③について。この本は、松村一志さんの『エビデンスの社会学』(青土社、2021年)で触れられていて面白そうだなと思い購入したものです。
 ④について。日本の近現代史を「奇想科学」(いまのわれわれの目線からみるとしばしば「オカルト」のようにも見える)の視点から叙述する本といえると思います。

 ⑤について。比較言語学や比較神学といった、西欧諸国発の科学的研究が「世界宗教」なる認識を作り出したことを述べる本です。この本は、たまたま自分の専門分野の洋書を読んでいるなかで発見しました。
 ⑥について。これは人類学の名著です。宗教と科学はよく対置されますが、アサドのこの本については、宗教を世俗と対置させて考える内容となっています。たしか松村圭一郎『ブックガイドシリーズ 基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011年)のなかで取り上げられていたような気がします。

 このようにラインナップをまとめてみると、ゆるやかに関連しながらも、しかし趣の異なる本が並んだ気がしています。つまり、広義の意味で科学に関係しながらも、でもアプローチには多分に差異があるということでしょうか。「無知」「幽霊(心霊)」「奇想科学」「宗教」「世俗」といった補助線を引き、科学について考えるという趣旨の文献だと言えるでしょう。


文化史において「科学」はいかに捉えられるか?

 上記の6冊の文献のラインナップからもおわかりのことかと思いますが、文化史にかぎらず「科学」を研究するさいにはさまざまなアプローチを想定することができます。やはりポイントは、「いかなる迂回路を用意できるのか」という点にかかっていると思われます。「科学」を、どの視点から捉えるのか?ここで独自な視点を設定できれば、これまで発見されてこなかった語り方ができるのかなぁという印象です。

 たとえば、「科学」の伸長によって発展した19世紀のもろもろのテクノロジーという視点を導入することができると思います。例を挙げると、①写真の登場とそれにまつわる心霊現象の誕生について書かれた浜野志保さんの『写真のボーダーランド——X線・心霊写真・念写』(青土社、2015年)という本、②電話・ラジオ・蓄音機が人びとの想像力を拡張させていったことを述べる吉見俊哉『「声」の資本主義』(河出書房新社、2012年)、③鉄道の誕生とそれによる人びとの生活の変化を述べるヴォルフガング・シヴェルブシュの『鉄道旅行の歴史——19世紀における空間と時間の工業化』(法政大学出版局、2011年[原著は1977年])、④時計の誕生と人びとの時間認識の変化を跡付けたアメリカ史の研究書では、マイケル・オマリー『時計と人間——アメリカの時間の歴史』(晶文社、1990年[原著は1990年])、⑤さらには科学とそれのスペクタクルという意味では、万国博覧会にまつわる新書である吉見俊哉『博覧会の政治学』(中公新書、1992年)などもあるかなと思います。

科学への信仰(あるいは「狂信」とも言えるかもしれませんが)という意味では、さまざまな社会主義の流行を絡めることもできると思います。たとえば、マルクスたちから批判された「空想的社会主義」の代表例としても有名なサン=シモン主義の流行とその社会を論じた鹿島茂『パリ万国博覧会 サン=シモンの鉄の夢』(講談社学術文庫、2022年)などが挙げられると思います。
 また、進化論とその影響を論じる系の本(クリントン・ゴダール『ダーウィン、仏教、神——近代日本の進化論と宗教』)なども想定できるでしょう。
 これで最後にしますが「オカルト」と医学という視点を導入すれば、有名な文化史家による意外な本ではあるのですが、ロバート・ダーントンの『パリのメスマー——大革命と動物磁気催眠術』(平凡社、1987年[原著は1968年])を指摘することができると思います。ダーントンといえば、西洋史学科の学生なら一度は耳にしたことがある『猫の大虐殺』や『革命前夜の地下出版』などの著作で知られる近世フランス史の専門家ですが、じつはキャリアの初期には、動物が持つ磁力つまり「動物磁気」の調整によって人間の病気を治癒しようとする医学(まぁ簡単に言うとめちゃめちゃアヤしい「科学」なわけですが笑)の流行を分析した本を書いていました。

 なお、もちろん文化史の「科学」にかんする研究書として、ここにあげたトリッキーな視点を導入するもの以外にも、オーソドックスなものもあります。たとえば、代表的な例として挙げられるのがJ.H.ブルック『科学と宗教』(工作舎、2005年[原著は1991年])です。この本は、科学という概念の歴史を辿るといった趣のものであり、Peter McCaffery and Ben Marsden, The Cultural History Reader (Routledge, 2014)の「宗教(religion)」の章で紹介されています。

 ここまでうだうだと文献を羅列してきましたが、ここで挙げた本の特徴は、一般的には科学にまつわる歴史となると科学的大発見をした知的エリートの歴史という風潮になりやすいのですが、どちらかというと民衆(いわゆる一般人)に焦点が当たっているところだと思います。直接的に科学を論じずに迂回するとなると、取られる方策としては科学の発信者ではなくその影響力の受け手を論じるということになるのかもしれません。

付論:『世界宗教の発明』とナタリー・ゼーモン・デイヴィスの近著

 このnoteを締めるにあたって、増澤知子『世界宗教の発明』についてひとつだけ、付け加えておきたいことがあります。それは、『帰ってきたマルタン・ゲール』等で著名なフランス史家ナタリー・ゼーモン・デイヴィスの最新著作との関わりです。

 デイヴィスは、御年93に当たる2022年に『民衆の声を聞く——ルーマニア、イディッシュ、そしてフランスについてのラザール・セネアン(Listening to the Languages of the Peole: Lazar Sainéan on Romanian, Yiddish, and French)』という本を刊行しています。これは、19世紀後半のラザール・セネアンという言語学者に焦点を当てた研究書で、デイヴィスお得意のミクロヒストリー的叙述を取り入れた興味深い本です(この本についてはもっと取り上げたいので、また稿を改めて記事を書きたいなと思っています)。ちなみに、ちょっと前にこの本に関連する文献をinstagramに投稿しておいたのですが、そのときにこの本は買いそびれていて投稿できませんでした……。

 この本の主人公であるセネアンの描かれ方は、比較言語学界のなかで、さまざまな妨害(かれははユダヤ人でもあったので)を経ながらも、くじけずに研究活動に打ち込んでいくというものであり、まるで小説を読んでいるかのような感覚になります。この本を通して考えさせられるのは、以下のようなことです。この頃に発展した比較言語学は、のちにフェルディナン・ド・ソシュールのような大学者を生み出したり、またオリエントの言語が熱心に研究されたこともあって東洋学の発展を促進したり、たしかにさまざまな恩恵をもたらしました。しかしながら、20世紀中盤には、言語学が注目していた「インド=ヨーロッパ語族」や「アーリア人」の概念が悪用されたり、1980年代以降になると——それこそ「世界宗教」の概念もそうですが——そもそもかれらヨーロッパ人の「オリエンタリズム」的視点が批判されたりと、負の側面もあります。

 21世紀も四半世紀が経とうとしているいま、もういちどこのあたりの問題を再考するべく、こういった文献を読んでいくべきだという気もします。

 ということで、やや冗長になってしまいましたが今週のinstagramまとめを終了したいと思います。ここまで読んでいただいたみなさま、ありがとうございました!




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