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過ぎていく夏とともに。

気づけば8月が終わり、9月に入った。

夏って冬よりも日照時間長くて、一日をより長く感じそうなものなのに、どうしてこうあっという間なんだろうね。

My Hair is Badに「夏が過ぎてく」という曲があって。

夏"が"過ぎてくという表現に対して、

僕たちが夏"を"過ごす、のではなく、夏そのものが僕たちの意思や想いとは関係なく刻々と過ぎていくんだという風に感じられて、僕は好きだ。

そういった想いで曲名や歌詞が書かれているのかは分からないけどね。

主語を変えたり、視点を変えたり、そんなちょっとした工夫で印象も変化するから言葉って面白い。


そんな今年の夏は、なるべく予定を立てて外に出るようにしてはいるものの、休職していることもあって日々かなり落ち着いている。

落ち着いているというのはスピードの感覚でもあるけれど、一日の濃度というかなんというか。

そう、例えばこうやって季節のことを書くことは多いけれど、特定の1日の出来事のみで構成された記事は中々書けない。

そのせいか1日の経過やその価値に無頓着になってきている気がする。

「今日はこれをやろう、明日はあれをやろう。」と自分でペースの配分が出来るのは僕自身にすごく合っていると思う。

だけど夏休みの宿題とかもそうだったように嫌なこと面倒なことは追い込まれないとやらないよね。

それが不必要なことなら別にやらなくてもいいと思うんだけどさ。


実は一昨日、また過呼吸になってしまって、でも気分の悪い原因が過呼吸って気づくのが遅くて、対応が悪手になってしまった。

過呼吸になったときって呼吸のし過ぎで血中の二酸化炭素濃度が下がって血液がアルカリ性に傾くことによって色んな症状が起きるらしいのね。

だから本来とるべき行動は大きく吸って吐くんじゃなくて、吸って大きく吐く、そして血中の二酸化炭素量を増やすこと。

なのに真逆のことをしちゃったから、どんどん気分悪くなって、手足が軽くけいれんしたり、挙句の果てにはめまいと吐き気が止まらなくなって、最終的に意識失いかけて文字通り最悪だった。

夜間救急に連れて行ってもらっている車の中で意識失いそうになったんだけど、人生で初めて「記憶が走馬灯のように走る」ような経験をした。

仲良かった友達と最後に会ったのいつだっけ、お別れまだしてないのにな、とか。

せっかく思い切って決断した転職活動、まだ途中なのにな、とか。

note書こうと思ってたのにな、あ、書こうといえば遺書書いてないじゃん、とか。

とにかく色んなことが頭の中を駆けずり回って、最終的に「まだ死にたくない」「やり残したことがある」って思った。

そしてそれを何故か神様とか仏様に言うんじゃなくて、自分に言い聞かせてた。


自己啓発のお決まりの文句で「明日やろうは馬鹿野郎」みたいなセリフがある。

あれは都合のいい場面で、都合のいいように人を動かすために使い回されたフレーズで、正直言って大っ嫌いだ。

でも明日が来るかどうかわからないのは事実で、言いたいことも何となくわかる。

人生は自分以外の誰に決められるものでもないし、自分ですら全ては決められない。

始まりと終わりは曖昧で、毎日に予定や意味があるわけでもないし、後からああしておけばと後悔することもある。

人生と夏は少し似ている。

僕たちが人生を全て決めて過ごしていくわけではない。

人生が過ぎていく中で、僕たちは都度都度決めたいことの中から決められることを決めていく。

人生の方が夏よりも圧倒的に長いけれど、
繰り返し訪れる夏よりも1度しかない人生はある意味、夏よりも刹那の一瞬なのかもしれない。

その不可逆の流れの中で、大切な何かを決めていくことって大事だけど苦痛だよね。

苦痛だからこそ誰かの言いなりなんかじゃなくて、自分の思ったようにやってみて、違ったらまたそこで思ったようにやってみるのが良いんじゃないかっていうのが最近の僕の考え方の結論。

もちろん何回間違えられるか、間違った時に支えてくれる人はいるのか、それがどのくらいいるのかは人によって違う。

1度も間違えられない人もいる中で、何度か間違える余地がありそうな僕はその点少し恵まれているのかなとも。

もう少し早くこういう考え方が出来てたら、今の状況も違っただろうけど、今はこれでいい。

そう、これでいい。

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