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ワーキングメモリーと知能の凹凸のはなし。②


以前に、私はワーキングメモリーが微妙に低いため、物事を短期記憶に留める事が苦手と書いた。

全検査IQそのものは平均からやや高めの数字が出ているので、ドヤ顔で自慢できるような内容でもないのだが…。
ワーキングメモリー(短期記憶)は平均からやや低めで処理速度はだいぶ高めの数字が出ている。

これがどのような影響を及ぼすのかについて書いてみる。

まず、知能の凹凸について考えてみる。

医師の説明によると、得意なことは非常に目立つが、苦手なことは目立ちにくいらしい。
周りの人々はその人の得意なことを基準に見てしまい、苦手なことが明らかになった時に、得手不得手の落差があまりにも大きいと受入れるのに時間がかかる事があるそうだ。

また自分でも無意識に得意な事で苦手な事がカバー出来てしまうと、苦手な事すら特定出来ず「なんかおかしい」となってしまうケースが多々あるようだ。

知能検査というものは、発達障害の確定診断に用いるものではなく、あくまでも得意不得意の凹凸が激しい我々が、自分で苦手な事をしっかり認識したり、周囲にエビデンスとして提示する為の参考でしかないという説明を私はされている。


確かに私は、自分自身の記憶力がないと感じた事は一度もない。
しかし短期間に大量の情報を保持することが難しいと感じる場面は多々あった。
例えば、複雑な手順を一度に教えられた場合、その途中で何をすべきかを忘れてしまうことは茶飯事であるし。
ノートやメモを取るにしても、字を書いてる時に人の話は耳には入ってこないので、口頭説明によるメモ書きはいつも中途半端で意味を全くなさないのである。
話が終わって、しっかり聞いてからノートをまとめる方法はマジで最悪だ。全て話の内容が頭から抜けているので、ノートへのまとめ時間は不毛な時間を過ごす事になる。
しっかり聞いてるはずなのに、これはおかしい…と長年思っていたが、長年放置していたのは、やはり自分の異常さ(苦手さ)の認識がうまく出来なかったからだ。

一方では、技術的な部分について、情報を忘れる前に手を動かして身体に擦り込もうとする傾向はある。
頭で物事を覚えるのが困難なので、とにかく数をこなして身体に覚え込ませるという事はあるあるだ。

その結果、自分の口で何かを説明する事があまり得意ではないという状況にもなりがちなのである。

このような凹凸があるのは、確かに面倒だと感じる事は多い。
特に、うっかり自分の得意な部分が初期の段階で露呈してしまうと周囲の期待が上がってしまう。
その後も、それなりに立ち回れる器用さや愛らしさがあれば、人との仕事面での信頼関係ももう少しマシなものになるのだろうと思っている。

しかし自分の弱点が露呈する瞬間は非常ストレスがかかっていて、取り繕う余裕もなければ、ショボいワーキングメモリーの容量がオーバーしている状況だ。
自分の中で混乱やフリーズが生じている状態で、他人が関わっている状況下。
何となく大きな摩擦もなく乗り切れる人間であればいいのだが…
多くのASD属性は根本的にコミュ障なので、そこで言語的あるいは非言語的なコミュニケーションにエラーを起こしてしまって、信頼関係を破壊…という経験をしているのは何も私だけでは無いのでは?と思ってしまう。

例えば、職場で新しいシステムの操作方法を教えられたとき、他の人がすぐに覚えられることを私は何度も確認しなければならない事は多々ある。
その度に周囲の驚きや失望を感じることがあり、自己評価が下がることもあります。
そこで「この人はダメだな。この部分はやらなくていいから、出来ることだけ、やりたい事だけやりましょう」と匙を簡単に投げてくれるほど社会は甘いものではない。


対価が発生している以上、仕事に携わっているのであれば、「これは出来ません」というのは通常は通用しないものだ。
対価を貰う以上は“これくらい”出来てもらわにゃ困る事は本当に多いのだ。
特に多くの会社では、その人の持つ技術だけではなく1人あたりの裁量を見越して時間あたりの安定した給料を払っているわけだから、苦手な事は出来ません…では、よほどその人が会社の売上に飛び抜けて大きく貢献してない限り、まかり通る訳がないのだ。

他の社員の負担を増やす足枷でしかないからね。

なので自分で稼げない、支援者もいない、「これめっちゃいい!!」と一言言うだけで会社1つ分の大きさの経済が動かせるほどの才能もない我々は当然対策が必要になってくる訳だ。

誰よりもやりまくると言うのが、1番簡単な方法かと思うのだけど。
我々にとってデジタルツールは救世主となる事も多いので、可能であればそれらの使い方を覚えてを使い倒すと言う方法も重要なことだ。


…とはいえ、矛盾してるようだが、周囲の理解を得るのはマジで重要だと思っている。

いつまで経っても与えて貰ってばかりの赤ちゃんでは困るのだけど、人間はそもそも社会性の生き物なので1人で生きていけると考えるならば、それはただの傲慢だと思う。

人間が言語を介してコミュニケーションを取る生物である以上、言語化する能力は絶対に必要なことだし。
ギャースカ騒ぐ赤ちゃんなんて、大人の世界である程相手にされないため、どうすれば伝わるのか考え続ける事は万人に必要だ。

自分の意見ばかり主張していても聞き入れて貰えないものなので、聞き入れて貰えるだけの何かがない事には当然見向きもされない。

それを踏まえた上での対策の1つとして、自分の能力値を知った上で、出来ない事は出来ないなりにどーするの?と言う試行錯誤は多分今後もしばらく続くんだろうなぁ…と考えている。

結局、人間は凹凸云々もそうだけど“総合的判断”という要素もあるので、いくつかが得意でいくつかが苦手だったとて、どこまで実生活に影響が出るかなんて本人じゃないと解らないよね…と、適当にまとめておこう。



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