別に、文章じゃなくてもいい。
別に文章じゃなくてもいい。
ライターが言うか?と思われるかもしれないけれど、
何かを伝えるためには、別に文字にしなくたっていい。
なんならぼくはラジオも好きだし、ラジオは手を止めておく必要がない。何かをしながら聴けるし、作り手側もBGMやジングル、音声のエフェクトなど幅は広がる。
なにより、話し手の声色まで感じ取れるのがよい。
同じ言葉でも、明るく言っているのか、驚いているのか、優しく言っているのか、それだけで聴き手の受け取り方は異なる。
また、パーソナリティが複数いたり、ゲストと話している場合は、なおさら情報量も増えるものだ。
緊張していたゲストが徐々にリラックスしていく現場の空気感。
レスポンスの速さで話し手のテンションがわかるかもしれない。
感嘆詞や笑い声、沈黙だって大事な素材。
電波には乗らないが、お互いの顔を見ながら話しているスタジオでは、ぼくらには分からないところで通じ合っているシンパシーがあるだろう。
たぶん、ぼくが他人よりも文章を書くことが得意な理由は、
他人よりも少しだけ辛抱強いから、だと思う。
本当は、インタビューの様子を、そっくりそのままお届けしたい。
話してくれた人の言葉や声、表情まで、ぼくの目や耳で受け取った情報の鮮度を、そのまま保っておきたい。
情報の鮮度は、文字にすればするほど、落ちていく一方だ。
いかようにも切り取ることができ、言い回しだって変えられる。
取材の内容をいじくりまわした結果が、文章という記事なのではないか。そんな気さえしてしまう。
しかし、他人よりも少しだけ辛抱強いぼくは、できるだけ鮮度が落ちないように、丁寧に丁寧に包装紙で包むように、じっくりとラッピングしていく。
「ここは言葉通りに受け取らず、噛み砕いた方が良さそうだな」
「思い切って、ここからここまではスパッと切っちゃおう」
「漢字がいいかな。ひらがながいいかな……」
一つ一つ、吟味して、検証しながら進んでいく。細部までこだわる。誤字脱字がないか、何度も読み返しながら。まさに、一歩進んで二歩下がる。
文章は音声よりも、そして音声は映像よりも、情報量を限りなく削ぎ落とされているメディアだと思う。
しかし、情報量が少ないほどに、それを読み解く主導権は受け手に委ねられる。
自分の過去の思い出と照らし合わせたり、今ちょうど直面している壁と共通していることを感じ取ったりするものだ。一回一回立ち止まってもいいし、別の考え事をしながらでもよい。
そんな余白が情報の受け手に与えられる。
この余白は不思議と、記事に魂を込めれば込めるだけ、大きくなる。
心血を注いだ分だけ、その人の中にも風が吹いたり、波が立ったりするもので。
別に文章じゃなくてもいいのだけど、文章である意味といえば、そんなところかなと思う。
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