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【留学で得た知見】幸せとは

こんにちは、もねです。

最近は、めちゃくちゃ真剣に答えのないことに対して考えていて病んでます。


自分の人生、どうすればいいのかわからない。
ただ、誰かのために生きていきたい、ただそれだけなんですよね。

誰もが対等に、平等に、将来の選択肢を与えられる世界ができればいいなって思ってます。

誰かのために、何かをする、それこそが私の幸せであるかと、今は思っているからです。
時にはお節介、または何かを崩壊にもたらすかもしれませんが…

まぁそれは別のお話です。


今回は、幸せってなんなんだろうって考えた、私なりの答えを書こうと思います。

今のところの答えは、欲求がないこと、または無知なこと。
だと思っています。


その理由を今から綴ろうと思います。

※全て個人の見解です。


【理由その①】何も知らなかったら、ハッピーじゃね?

何も知らない、は言い過ぎましたが…

世界を知れば知るほど、世界は複雑化していきます。

例えばですが、私は、キルギスや中央アジアのことを知る前は、この国は遊牧民がいて、一人一人伸び伸びと生活しているって思っていました。

しかし、中央アジアの現実を知ると、涙が出そうになるくらい、複雑で深刻で、私一人じゃどうしようもできない社会構造だったのだと知りました。

この事実を知る前は、早くキルギスに行きたくて行きたくてしょうがなかった。

でも今はどうにかしなきゃ、って気持ちがありますし、しばらくは(病むので)離れていたいって思っています。

なかなかキルギス生活を振り返ろうと思わなかったのも、多分キルギスの社会構造を知って、日本と比較したからだと考えます。

また、身近な例だと、やる前はイメージがつかなかったけど、やったら意外と面白かった、とかあるじゃないですか。

やらなかったら、その物事を知らずにいれるので、なんとも思いません。

でも、知ることの楽しさ、喜びを知ると、世界はどんどん広く、複雑に見えてくるって思ってます。


知らない方が幸せなことってたくさんあると思いました、だから海外を知らない人たちは問題意識が海外に行っている人に比べて低いのだと私は考えています。


無知なのは、都合のいいことでもあり、都合の悪いことでもあります。でも、自分の人生を日本の社会を、世界をよりよくしていくためには比較することが第一歩なのだと考えています。

無知の知、まさにそれですね。
あまり難しいことは言えませんが。

無知の知を自覚した上で知識をたくさん身につけることで、物事の仕組みって意外と単純なのだと気付けるんですかね。

そこの境地にまだ至ってないので何も言えません。

【理由その②】マズローの欲求段階説

とあるキルギス人に言われました。

「マズローの欲求段階説で、多くの中央アジア人は物理的欲求で止まってる人や、社会的欲求で止まっているひとが多い。明日生きるのに精一杯で、環境問題について考える余裕もない人もいるんだよ。」

マズローの欲求段階説


ショックでしたね。

私は日本という国からみた視点でしか物事を考えられてなかった、と、深く反省しました。(病んだ理由その2)


でも本当にいい学びでした。


確かにその通りです。


自分の視野が狭かったことに対して、なかなか受け入れられずに病んでました。
これを知れてよかった。


明日生きるのに精一杯、かもしれないけど、その人にとっての人生や世界っていうのは働いて、家族をつくって、明日も生きること。


欲求の規模が小さければ小さいほど…
欲求がないことが幸せなのかもしれません。


私自身哲学のゼミに所属しているのですが、先生も欲求がない状態が幸せだって言ってました。


確かに、お腹空いてる時に焼肉食べ放題で満たされてる時って幸せですよね。

友達と遊んでる時って、欲求が湧いてこないから幸せですよね。

彼氏欲しいって思っている時に彼氏できたら満足ですよね。

その人の欲求がなくなった時に、幸せは訪れると思っています。


ですが、人間は学び、経験する生き物なので、欲求が次から次へと出てきます。

なので、完全に満たされる時って、死ぬ直前にあるかないか、なのかなぁ〜とか思っています。

わからないですけどね、その境地に達してないので今は模索中です。


まとめ


キルギスで、幸せとは、たくさん考えました。

答えは一応でましたが、まだまだ考え中です。

でもやっぱり、私はやりたいことがたくさんあるので、完全に幸せといえる状態は生きてる間来ないと思っています。

いや、そうだと願いたい。


色んな社会に揉まれ、足掻き苦しみ、問題に対して向き合っていたい。

問題が見えなくなった時、私は幸せなのかと問われるとそうではないと思います。


そう言った後に何が幸せなのか問われるとよくわかりません。結局よくわかりません。


本当に自分が最期にどうなっていたいかを、日々模索中です。


仮に、家族ができて、愛する人ができて、友人に恵まれ、毎日が楽しいって思える日々が来たとしても、

私は世界で困っている人がいるという事実を忘れたくない。

仮に誰もが幸せになる、その日が来たとしても、それは本当に幸せなのかを考えていきたい。


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哲学なのかどうかはわからないけど、こういうこと深く考えるの大好きなので、興味持ってくれた方、是非語り合いましょう!


終わり

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