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ジャストミートの読み方とファウルの読み方

平野啓一郎氏の著作に大江健三郎氏の言葉として、次のような言葉が出ています。

「読書には時期がある。本とジャストミートするためには、時期を待たなければならないことがしばしばある。しかしそれ以前の、若い時の記憶に引っかかりめいたものを刻むだけの、三振あるいはファウルを打つような読み方にも、ムダということはないものなのだ。」

(僕が5年前に書いた読書メモでは「スローリーディング」と書いていたのですが、平野啓一郎氏の著作にそれはみつからないので、上掲書だった可能性がありますが・・・)


読書にはその人の成長レベルにみごとにジャストミートしたときがあるのは事実だと思います。
でも、それをねらおうとあれこれ考えても意味がない。
それがジャストミートしたのかどうかは読んでみないとわからないし、読んでファウルだったとしてもそれに無駄ということはないと言っているでsです。

 だから、そんなこと気にせずに読めと。
 読んでピンと来なかったら、あとから再会すればいいだけです。

 僕は、「吾輩は猫である」をこれまで4度読み直しています。
15歳で読んだときは、三振。
25歳で読んだときは、少し球にかすった感覚。ファウル。

そして漱石がこの本を執筆した年齢の頃に読んだ時には、その書いた時の彼の気持ちがわかった気がしました。
小説家になるという自分の決定に突破口が見えた時の、「やった!いける!」という有頂天な感覚が読み取れたのです。(自分なら・・・という視点ですが・・・)

そして50歳、漱石がこの本を書いた年齢を超えてから読んだとき、はじめてジャストミートした気がしました。
それまでに何度も読んでいたからこそ得られるジャストミート感であったと思います。

ファウルをたくさん重ねてきたからこそ得られるジャストミート感。

本は、ジャストミートできるものを選ぶのではなく、読みたいと思ったとき読みたいと思った本にふれるのが一番いい。

同じ本にこのようなことも書かれていました。

読書で大切なことは、自分の感想を過信しないという態度だ。感想は「かりそめ」。

常にかりそめ感を持っておくところに自己の成長を感じる糸口があると思っています。

だから、一冊の本を何度も読み直したいですね。

特に過去三振した本は。

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