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日本の「庭」とヨーロッパの「庭園」⑥

30年前の私が綴ったらしき長文レポートにお付き合いくださいまして、ありがとうございます。
400字詰め原稿用紙50枚以上という課題で、註を入れれば56枚にも及ぶので、まだまだ続きます。気長にお付き合いいただければ幸いです。

第3章 文化的要因による比較
第2節 宗教・思想

 一般的に芸術というものは、宗教や思想の影響を大きく受けやすい。庭園もまた例外ではないだろう。ヨーロッパと日本の庭園に深い影響を与えた幾つかの事象について、検討する。

古代ギリシアの宗教
 古代ギリシアでは、人間の肉体の美こそが至上のものである、とみなされていた。オリンポスの神々は、山川草木よりもむしろ、肉体の美に基づいていたのである。この神々は不老不死ではあるが、人間と同じような容姿や感情を備えていた。ギリシア神話や『イーリアス』『オデュッセイア』をはじめとする叙事詩などには、神々が実に人間らしく描かれている。

このような特徴のために、人々が宗教的な畏怖の念を交えて自然を崇拝することは、あまりなかったといってよい。

日本古来の宗教と庭園
 一方、日本では、山川草木の自然が肉体美に勝る最高のものとして考えられてきた。これには、前章で述べた気候の特色が、深く関わっているのであろう。このため、古代から高山・巨岩・湧水・川流・大海などが神として崇められた。

 人々は、最高の存在を人間の生活に近づけようとして、自然の美の再現を試みたのだが、このことが造園の第一歩になったと考えられている。日本人にとっての神という意識は、崇拝対象である自然の性格上、結果的に美の意識に通じることになる。そのため、信仰の空間は次第に美的、芸術的空間へと転じていった。自然そのものを根源とする宗教は、古代ギリシアの宗教とは相対して、日本人を造園へと向かわせることになったのである。

 「庭」という文字が文献に初めて表れるのは『日本書紀』の「斎庭(ゆにわ)」という言葉である。これは、神を祀るために浄められた場所を意味し、今日の庭園とは全く異なる空間であった。
 大神神社 (※①) の御神体とされる三輪山には、後世の庭園にある石組を思わせる、巨石を中心とした磐座(いわくら)が現存する。斎庭は、このような石を中心として砂利を敷き詰めた、神聖な広場のようなものであっただろうと、伊勢神宮の古殿池などをもとに推察されている。

 この神秘的な空間に社殿が建立されると、「斎庭」とは性質の異なる「庭」が出現する。これは、神聖さの焦点が、斎庭的空間から社殿の建築的空間へと移行するためである。斎庭は、建築物に統一感を与える装飾的な役割を担うようになる。ここに「庭」のひとつの原点があるといえるだろう。

 農業の普及などを背景に貧富の差が生じ、社会構造が変化して、天皇制が始まった。古代において、天皇は政を司る現人神と考えられていた。そのため、天皇の住居である御所にも「斎庭」の発達した構想がみられる。京都御所紫宸殿の平庭は、中国の宮殿を模した回廊に囲まれながらも、伊勢神宮を思い起こさせるのである。

 自然を絶対視する伝統は、長い歳月にわたって継承された。『作庭記』(※②)の3行目には、次のような記述がある(※③)。

"生得の山水をおもはせて、その所々はさこそありしか、と思ひよせゝたつへきなり"

 自然本来の景観の中で、なるほどと思われるところを思い浮かべながら庭をつくるべきだ、というのである。
 また、632行目には

”人のたてたる石は、生得の山水には、まさるべからず”

とも記している(※④)。『作庭記』全体を読むと、単に自然を模倣せよと教えているのではなく、日本の自然風景を庭園に取り入れる方法を提示しているのだと判断できる。とはいえ、自然を人工よりもすぐれたものと認める姿勢があったことは間違いない。

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※① 大神神社 三輪山を神座としているため本殿が設けられておらず、拝殿とその後方の三輪鳥居があるだけである。

※② 『作庭記』 日本の代表的な造園解説書。平安後期から鎌倉初期の作。編者は橘俊綱とされる。

※③ 森蘊『「作庭記」の世界』(昭和61年3月発行)日本放送出版協会43頁

※④ 森蘊『「作庭記」の世界』(昭和61年3月発行)日本放送出版協会78頁



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