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子(ね)の会 吟行合宿記②

 門前の案内板に目を通す。大和国初瀬の山中で見つけた樟の巨大な霊木から二体の観音像が造られ、一体は大和長谷寺の観音像となり、もう一体が衆生済度の願いを込めて海に流されたとのこと。三浦半島に流れ着いた観音像を遷して建立されたのが、この長谷寺だそう。流れ解散となった吟行軍団は、漂着した観音さまをそれぞれに拝む。

  十一面観世音菩薩錫杖に添はする右の御(み)手の長さや/時本和子 

  あてもなく海を流れてきたという観音さまは今も立ち仕事/葉山健介 

  ふりかへることなかれのこゑ くわんおんはまなざし眠き春のくらがり/川井怜子

   「よがつたねえ、最高だ」といふ声す観音堂の外に葉桜/勺禰子 

 観音堂外の澄んだ池には立派な鯉が泳ぎ、桜の季節が過ぎて目には青葉の心地である。

  池底にゆれる涅色のコイの鰓あざあざと見ゆ牡丹(ぼうたん)よりも/富沢恵

  自分のペースで境内を散策する。ベンチに腰掛けている吟行仲間を見つけるたびに、手を振り合う。奥の階段を上り、群生する著莪に邂逅する。青みがかった著莪の白に、熱を帯びた心身を涼ませる。上りきったところで、ひとり佇み鎌倉の海を遠望する葉山健介さんを発見。なにやら真剣な面持ちなので(吟行中なので当然ですね…)、声をかけたり手を振ったりするのを控える。階段では、東南アジアの言葉を操る若いご一行が、ひとが通りかかるたびに「ごめんなさい」と微笑みながら撮影を中断して道を空けている。なんと礼儀正しく気遣いがあるのだろう。西洋人とおぼしき観光客も、目が合うと微笑んでくれる。けれども日本人の観光客とは微笑みを交わす機会がなく、国と国、あるいは人と人とのよろずごとを思いつつ階段を下る。

 この世の春を謳歌するような牡丹と並んで、記念撮影するひとたち。イタリア語、フランス語、中国語、日本語がさんざめく。

  長谷寺に人らあふれて飽食のわれは吐き気を少し覚えり/渡部洋児  

  長谷寺の庭にくれなゐちりばめてなまぐさきまで盛る牡丹/小島熱子 

 色彩と音と人間の氣にむせかえりつつ、弁天窟へ。洞窟のなかは湿度も音の響き方も、異界のよう。中にはほぼ等身大かと思われる童子の石像が並び、その奥に素朴な石彫りの弁天さまがいらっしゃる。弁天さまのおみ足に触れると、濡れて冷たくなっている。足指の先が少し朽ちかけているようだ。季節によっては暗く冷え込む洞窟にこもり、足を踏ん張って一心に弁天さまや童子たちを彫ったひとが、かつてここにいたのだ。敬虔な気持ちで手を合わせ、心を鎮める。

  水音のくぐもりのなか瞑目す母胎のやうなる弁天窟に/春野りりん 

 しかし、奥の洞窟に進むと、なんと一体三百円でミニ弁天様を奉納できるようになっていた。次の洞まで所狭しと居並ぶミニ弁天様方と、その数だけ掛けられた願に、たじろぐ。 

(続く)

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