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この世界への客人
みごもりて湊となりぬ異界より客人(まらうど)まねく母とふ湊
春野りりん
人間が傷つけあうさまに疲れ果てていた頃、破壊の続く地球環境に新たな命を迎えるか悩んだが、《エネルギーの大きな命がやってくるから大丈夫》という予感に従うことにした。
私を介してやってきた客人は果たしてエネルギッシュで、ブランコを漕ぐように反動をつけ、ベビーカーを自力で前に進ませた。散歩中赤信号で止まると、彼は不服そうに漕ぎ続ける。私は傍らに屈みこみ、身振り手振りを交えてオーバーな表情で説明した。「私たちがこっちから、車があっちからきているでしょう。そのまますすむとバーンとぶつかって、いたいいたいってなるの。ほら、あっちに青いでんき、こっちに赤いでんきがついているよね。赤いでんきがみえたら、青になるまで待つと、車とぶつからないのよ」。噛んで含めるように説明して以降、彼が赤信号でベビーカーを漕ぐことはなくなった。
私は彼が言いたいことを理解しきれなかったかもしれないが、彼のほうは、私の言うことも言わないこともわかってくれた。ただ、来たばかりのこの世界のルールに馴染んでいなかったにすぎない。
帰宅後、ベビーチェアに座る客人の口に、ひと匙のすりおろしリンゴを運ぶと、彼は満面の笑みを浮かべた。「おいしいでしょう。また食べたくなって、目の前にないときは『リ・ン・ゴ』と言ったら、これが食べたいんだってわかるのよ」。客人は「合点承知!」とでもいうような顔をした。
「これは何という名前だった?この間教えたでしょう?覚えてないの?」と詰め寄られたら、私ならば悲しくなるに違いない。それに、リンゴという単語ひとつだけでなく、私たちが言葉を使う意味をわかって、言葉のあるこの世界を好きになってほしかったのだ。
産むという言葉の不遜わたくしは子を運び来し小舟にすぎず
鶴田伊津『百年の眠り』
小舟の客人を招くからには、好きになってもらえる世界を大人たちが調えて歓待したい、そう願っている。
初出:「歌壇」2018年12月号
写真提供: 笹渕乃梨
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