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ノスタルジア・サァカス


 売女ビッチめ。

 心の中、悪態をつく。否頭の中か。ステージの真ん前のシートに座り、ウィスキィのロックを煽る。
 只でさえ仄闇い照明がもう一段階、闇くなった。浮かび上がるテーブルキャンドルはあかく焔は金色で、空間に更なる非日常感を与える。先刻まで流れていた流行りのR&Bが、下手なDJの早過ぎるフェイドアウトで消えた。
 ショウが、始まる。
 ネイティヴスピーカーではないだろう出稼ぎDJの、巻き舌英語が勿体つけてショウの開始を告げた。
 最初に出て来たのはウクライナの美女ビッチ。Japanese Yenを稼ぐ為ならば、どんな手段も厭わないガッツが有る。踊りは下手だが、金髪碧眼の幼い顔、スレンダーな體、ツンと上を向いたバスト、何よりもサーヴィスが激しいらしい。金色のポールに絡みつく青白い手足。光る長い爪。煌々と輝く瞼の青の鱗粉。水色のひらひらのドレスをゆっくりと脱いでゆく。白のレェスの、フリルだらけのランジェリィだけになると、目の前に女豹のポーズで近づいて来る。にっこり微笑み、チップを要求する。
 俺はボーイを呼び、蝶の描かれた店内専用通貨を買い、美女ビッチのガーターベルトに釣られた網タイツに挟んでやる。ARIGATO。投げキッス。I am Monica,Please request me!俺は適当に微笑んだ。お前も可愛いけれど、お前じゃ駄目なんだ。悪いね。しかし彼女を気に入ったガタイのいい欧米人が万札を数枚、レェスのタンガに挟む。モニカはステージからそいつに抱きつき、そいつはそのまま彼女をステージから下ろす。二人は手を繋いで、奥にあるVIP専用のあかいカーテンの間へ吸い込まれていった。
 お次に登場したのはベネズエラの美女ビッチ。エキゾティックな眼差しに驚きの軟体。小麦色の肌に映える金色のドレス。既に溢れている大きな胸はPlastic surgery紛い物。勿論大き過ぎるケツもだ。鱈子唇どころでは無い、ぼってりとした卑猥な赤い唇は、美しいと云うよりも俺を不安にさせる。Hi,are you alone?let's enjoy with me!I am Isabelle.ステージ前の席には俺しか居ない。一枚、蝶のチップを差し出した。イザベラの大袈裟なキスを頬に受けたがやはり巨大な唇は恐ろしい。

 嗚呼、売女ビッチ、お前は、どこに居る?

 奥の朱いカーテンの間に籠りっきりなのか?それとも。やっぱり。お前は此処には、居ないのか?
 俺は思い返す。お前の踊りを。お前の微笑みを。お前の囁きを。

 摩耶マーヤーは居ないのか?
 そんな名の踊り子ダンサァはおりません。

 可笑しいな。つい最近も此処で見たのだが。

 摩耶は猫の首輪の様な鈴付きのチョーカーと黒のミニドレスを纏い、金色のポールにくるくると回転しながらと登って行き、タロットのHanged Manの様に足を組んで逆さになった。開脚しながらポールを滑り降りた。黒のピンヒールには編み上げの紐が付いており、摩耶の脚をクロスしながら蔦いその曲線美を際立たせていた。蠱惑的、と云う言葉は彼女の為に存在する。
 朱いカーテンの間にいざなわれる儘、着いて行った。彼女の汗の匂いと懐かしい百合リリィの香りとが交り合い。抵抗など出来る筈はなかろう。腹を空かせ涎を垂らしながら待っていた従順な犬は、だがしかしお預けを喰らった。
 いい子にしていて。
 摩耶は俺の両手をぎゅっと握り締めたかと思うと鮮やかな手つきで瞬く間に、両の手首を後ろ手に、朱いシルクのリボンで結んで仕舞った。そして俺の為だけの踊りプライヴェートダンスを。蠱惑的な踊りを。
 嗚呼。
 涙が溢れそうだ。體中の穴と云う穴から。否涙では無く血なのかも知れぬ。沸騰寸前の血潮が體を巡り漲っている。助けてくれ、もう、俺は。俺は、耐えられない。目を逸らすと彼女は俺の顎をつめたい指先で持ち上げ云う。
 駄目。ちゃんと私を見詰めなさい。魔術マジック。見詰めては不可ない。惹き込まれる。ほら、貴方が欲しいものよ。熟れる直前の果実が目の前に。ジューシィに違いないすももを乾涸びた舌は求める。あん。駄目よ。そんなことをしちゃ。触っちゃ駄目。云いながら、両の果実を揺らしてみせる。それから背を向けて俺の脚の間に座る。触れるか触れないかの距離。天使の翼の左に黒猫。揺れる。時々振り返りながら柔らかく、ゆっくりと。ねぇ、私が、欲しい?物云わずに訊く腰の動き、情熱の波。りりり、とチョーカーの鈴が鳴る。瞬く間に過ぎる残酷な三百秒。

 可笑しいな。お前との激しい夜伽だって。こんなにも鮮やかに憶えていると云うのに、何故、お前に会えないのだろう。


 嗚呼、売女ビッチよ。何処に居る?


 可笑しいな。俺の記憶は確かなのだが。こんなにも、くっきりと。
 まぁいい。もう一杯、同じものを。否、彼女の好きなテキーラに変えようか。



 聖女ミューズよ、お前か。

 夜の帳が下りて、漸くサァカスに戻って来た。暗闇の中、瞼を開く。夜の天幕テントにお前は現れる。今夜こそお前を捕まえてやる。聴こえぬ音楽に乗り、朱色のシルクを體に巻き付けてくるくると旋回する。滑り降りて来てはまた昇ってゆく。俺は手を伸ばす。届かない。笑う女。否、俺を嘲笑っているのか?何故だ。どうして俺をそんなに苦しめるんだ。お前は一体何なのだ?何故、現れる?何故、笑う?何故、逃げる?

 結局、目覚める。いつものことだ。嫌な汗をかいている。いつものことだ。起き上がり、ベッドヘッドに置いてあるウィスキィを喇叭で流し込む。どうせもう眠れないのだ。真夜中の散歩に行こう。お前には会えないかもしれないが、きっと野良猫には会えるだろう。
 草木も眠る丑三つ時、などと云うが、草木は眠らない。何時だって俺を監視しているのだ。草木だけではない、俺を監視しているのは。何の為に?さぁ。わからないね。只、それはとても嫌だ。嫌だが逃れられない。俺は川沿いを北に向かい歩いている。水音は聴こえない。夜の闇に侵された川は黒く流れる。確かに、俺は川沿いを。

 にゃあーん。

 お前なのか?其処には黒猫が。朱の首輪、金の鈴。しゃらしゃら。近づくと逃げる。立ち止まると、こちらをじっと見つめる。お前にそっくりではないか。だるまさんがころんだ、の様に俺とお前は、近づいては止まり、近づいては止まり。漆黒の猫の目は金色をしている。お前なのか?捕まえて抱きたい。ふわふわの柔らかな體を撫でたい。頬擦りしたい。この際、お前が化け猫だって構わない。
 ヨーイドン!黒猫に向かって走り出す。驚いた黒猫は脱兎の如く走り去る。ゴールは、白のテープでは無く、朱の鳥居。
 黒猫は消えてしまったが。
 しゃらん。しゃらん。鈴の音は続いている。
 お前か?
 白狐の面を被った巫女が、独り神楽を舞っている。
 しゃらん。しゃらん。しゃらん。
 可笑しいな。こんな、丑三つ時に。
 しかしその舞に見惚れてしまう。草木は眠らない。草木は蠢き笑う。俺を監視しながら。嗚呼もう止めてくれ。俺を監視するのは。気が狂いそうだ。まさかこれもサァカスなのか。
 思った瞬間、膝の上には黒猫。温かく柔らかく艶やかな黒の毛玉は撫でてやると喉を鳴らした。懐かしい愛おしさに思わず抱き締めると、ガブリと俺の腕を噛みやがった。俺は逃がさない様に猫の細い首を掴んだ。鈴がちいさな悲鳴の様に、りりり、と云う。可愛がってやったと云うのにお前、何をするのだ。猫の眼と俺の眼が見つめ合う。金色が閃光を放った。眩しさに目を閉じた。


 ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 記憶。祖父が好きだった詩を、絵本代わりに俺に読み聞かせたのは母だった。

 ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 空中ブランコの揺れを、確か、その様に。  
 金の如意棒ポールをくるくると廻る摩耶。シルクのカーテンと戯れ揺れる摩耶。静寂の世界、突然、木にぶら下がる何かが揺れる音。ぎいぎい、ぎしぎしと。

 嗚呼、そうか、お前、其処に居るのだな。
 お前は高い場所が好きなのだな。
 白い着物のお前は、今度は桜の木にぶら下がって、踊っているんだろ?

 ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 最高に美しい眺めだ。
 もうすぐ夜が明ける。
 その前に帰らなくては。


 朝。
 起きると。
 白い制服姿のナースが白のカーテンを開ける。俺はその光の眩しさに目を瞑る。
 可笑しいな。何故お前がそんな格好をしているのだ。まあいい。それ程迄に俺を愛していると云う事なのだろう。
 可笑しいな。俺はベッドに縛り付けられていた。これもまたサァカスなのだろうか。まあいい。お前が俺のものであることに変わりはないのだから。


〈了〉