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看板歌詞と裏看板歌詞

 10月が終わろうとしていますね。時差の関係で、日本ではもう11月ですが、私は10月31日。ハロウィーンにこれを書いています。

 10月は諸事情で何でも屋さん(いわゆるフリーランスということです)を本格始動し、とても忙しかったです。新しいことというのは、ペースがつかめないので余計に疲れてしまうんですね。ほかに気を取られて、あまり作詞活動に身が入らなかったかもしれません。作詞の案件がとても少なかったのもあります。でも、今月は私なりの作詞課題がありました。それは、野球投手がフォーム改造をするのと同じ、作詞スタイル改造です。

 そもそもなぜ作詞改造に至ったかというと、まず一つ。今月はインスト曲ばかり聞きすぎたのはあるでしょう。ある仕事の関連で、インストゥルメンタルの曲にたくさん出会いました。とてもステキで、特に[.que]さんの音楽にはまり、彼のプレイリストばかり聞いていました。

 インスト曲を聞いていつも思うのは、音に歌詞なんて必要ないんじゃないか?ということです。本当は、歌詞なんてなくても音楽は伝わるんです。だってこんなに私の心に響いているんですから。音楽のタイプが違うと言ったら、そうかもしれません。でも、そもそも音だけで伝わるものならば、歌詞が奢ってはいけないと思うのです。歌詞は音楽に寄り添うだけ。共存しているだけ。そう思うと、もう一度歌詞の在り方について深く考えさせられたのです。

 最近、自分の歌詞だけでなく、誰かほかの方の歌詞を読んでても"Wordyだな”と感じてしまうのは、インスト曲ばかり聞いていたからなのかもしれません。Wordyをうまく日本語にすることができないのですが、辞書によれば「言葉数の多い、長ったらしい、おしゃべりな、くどい」だそうです。今までの自分の歌詞は主張しすぎていなかったか…そう考えたのです。

 でも、今までの音楽業界の流れが「主張する歌詞、Wordyな歌詞」が主流だったということもあると思います。歌詞は、楽曲の看板であるべきだったのです。今でも歌詞が看板であるべきというケースはあると思います。しかし、どちらかといえば今は「裏看板」であることを、歌詞に求められているような気がします。楽曲それ自体が「看板」であり、その楽曲をよくよく聞けば「裏看板」の存在を知ることになる。看板と裏看板、そこで楽曲の厚みが生まれる…みたいなね。つまり、主張しすぎていないんだけど、よくよく歌詞を読むと実は奥が深いよねーということ。ちょうどYOASOBIとか、パッと聞けば歌詞は主張していないのに、実は歌詞の存在感があとから染み出してくるしかけのように。歌詞の役割が変わってきているのかな、という肌感覚です。

 とはいえ、歌詞は「釘」の役割もあります。メロディーとボーカルを繋ぐために、しっかりとした骨組みを作らなければ、メロディーも、ボーカル自体も、破綻してしまいます。そこは作詞家大工さんの技術で、これに関しては今も昔も変わらないでしょう。

 なにはともあれ、「看板」づくりの看板を下ろし(ややこしいw)、「裏看板」づくりに精を出した1か月でした。自分の癖ややり方を変えるのは、なかなかの苦労です。まだ完成はしていませんが、少し変わってきたかなと思っています。変化しないのも個性、変化するのも個性。何がいいというわけではありません。そして何が正解かもわかりません。だから、自分がこうしたほうがいいと思う方向へ行くしかないんです。はてさて、この裏看板づくりは今後どうなっていくのか。自分に対して、乞うご期待と言っておこう。

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