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 フランスはイタリアと並んで、世界最高の革産地だ。中でもカーフと呼ばれる仔牛の革に関しては最高の素材がつくられる。この背景には質の良い原皮が大量に取れるという事情がある。つまり、なめされた革以前に、仔牛の皮がたくさん取れるのだ。イタリア原皮に関しては、イタリア国内に世界一大きな革製造(なめし)産業を擁するので、多くは国内で消費されてしまい、日本まではなかなか届かないが、フランスのタンナー(革なめし業者)の数はそれほど多くなく、フランスの仔牛皮は、ヨーロッパはもちろん全世界に輸出されている。これは、フランスやイタリアに古くから仔牛を食べる文化があったことで、ドレスシューズにとって最もポピュラーな素材であるカーフが存在しているということだ。少なくとも今はそういう状況である。

 カーフが生まれた当初のことは正直分からない。昔の貴族が靴をはじめとした装い全体に、尋常ではない情熱を注いでいたことを考えると、もしかしたら、カーフを取るために仔牛を殺めたのではないかと思ったりもする。肌理が細かいが故に艶やかな光沢を放つ、その上適度に柔らかくしなやかな仔牛の革はそれほど魅力的な素材なのである。まあでも、人間の強欲という観点で考えれば、食以上のものはないのかもしれない。きっとたまたま死んでしまった仔牛の肉が思いのほか美味で、その副産物として生まれたカーフが革製品として理想的な素材だったのだろう。普通に考えれば成牛になるまで育て上げ、食肉部分を大きくしたほうが効率的だが、きっと昔の貴族の食に対する欲求はそんなことを気にもしなかったのだろう。

 さて話は戻るが、何故質の良い原皮が取れる土地だから質の良いカーフが出来るのか? 日本のタンナーだってフランスをはじめとしたヨーロッパ各国から最高の原皮を輸入して最高のなめしを行っている。何が違うか? 輸送の距離が違うだけだ。通常、原皮は塩漬けにして寝かすから鮮度は関係ない。これはカーフを製造する業者にとって長い間の謎だったようである。ところが最近、ひとつの仮説が真実味を帯びてきたという。何と、原皮が運ばれてくる過程で赤道を通過するからだというのだ。ヨーロッパ原皮は船で輸入される。塩漬けにした大量の牛皮は嵩も張るし、それ以上にものすごい重さを有する。とても飛行機で運べるものではないし、第一そんなことをしたら原皮の値段以上に輸送費がかかる。同じ理由で冷凍船も使えないのだろう。よって、フランスの仔牛の原皮は南アフリカ喜望峰を廻るまでに一回、そして東南アジアを北上するときにもう一回、計二回赤道を通過することになる。この際にどうしようもなく付きまとう熱が原皮を痛めているのではないかというのだ。

 その仮説をもとにすると、フランスから北極を通って日本に運べばOKということになる。近年の地球温暖化によってこのまま北極海の氷が解け続けたら、きっとそうするのだろう。そのほうが距離も圧倒的に短いし効率的だ。ただし、そんなことでは決してチャラにならない、遥かに大きなマイナスこそが、現在深刻に討議されている環境問題そのものだ。軽々しく「効率的だ。」などと言ってはいえない。もし「愛」というものの様々な表現に関するコンテストがあれば、環境保護はかなり有力な優勝候補だ。我々人間が自然界に対して行ってきた無智な行動を自覚し改める行為は、我々の未来に対する愛から来るものだ。自然界への罪に対する懺悔というものが一体どこまで意義のあることなのかは分からない。恐らく歴史にしか証明できないことであろう。ただ、自分たちの子供に残す未来のために環境を保護するという行為には真摯な愛がある。きれいごとは抜きにして信用できる。

 いずれにしても、フランスの食文化によって生まれる最高の仔牛皮は、フランスの最高のタンナーによって最高のカーフとなる。そしてフランスの最高の靴職人が最高の靴をつくる。ただ残念なことに、フランスの靴産業はほぼ壊滅状態で、多くの靴ブランドが生産地をイタリアやスペイン、ポルトガルなどに移してしまっている。それでも小さな規模で手縫いのオーダーメイド靴をつくっている素晴らしい職人さんたちも現存する。一足の靴に四、五十万円の値段を受け入れられる人は決して多くはないが、それでも多くのビスポークシューズショップを目にするたびに、フランスには深い靴文化があるのだなと実感する。

 フランスにはたくさんの有名紳士靴ブランドが存在する。JMウェストン、パラブーツ、コルテ、ベルルッティー。そして洋服とのトータルブランドのそれを含めると枚挙に暇がない。それにバッグ等の革製品ブランドの靴も合わせると膨大な数になる。その中でも、最もフランスらしい、それもクラシックなドレスシューズという範疇の中で最高の靴はジョン・ロブであろう。ご存知エルメスの持つブランドである。ジョン・ロブというブランドはちょっとややこしい。

 もともと、ジョン・ロブはイギリスのビスポークシューズブランドである。ロンドンのセントジェームスストリートにある由緒正しき、英国王室御用達の店だ。ここではビスポークシューズのみを販売する。そして、パリにもビスポークシューズを販売するジョン・ロブ・パリがある。これはもともとロンドンのジョン・ロブの支店だったのだが、結局この店をエルメスが買い取り、自社の顧客に向けて靴をつくったのがいまのジョン・ロブの始まりである。そして、「ジョン・ロブ」の既成靴はイギリス・ノーザンプトンでつくられる。もともとエドワード・グリーンというイギリスのブランドの工場だった場所だ。イギリス最高の既成靴メーカーであったエドワード・グリーンの工場を買い取って「ジョン・ロブ」の既成靴をつくったのだ。つまりロンドン・セントジェームスストリートの「ジョン・ロブ・ロンドン」以外の「ジョン・ロブ」は、すべてエルメスによるもので、ロンドン・ジャーミンストリートのほか、全世界中で販売する「ジョン・ロブ」はイギリス製のフランスのブランドとなる。

 一九九八年、私が靴の販売職を始めて間もない頃、ここの黒のシングルモンクストラップシューズを毎日眺めることを日課としていた。昼食を早々に済ませて、仕事がある日は一日も欠かさず毎日、銀座のとあるセレクトショップに飾ってあったこの靴をただじっと眺めていた。三度の飯より、という言葉があるが、正にこの靴を眺めることは私にとって最高の時間であった。いま思うと、私が持っている靴の美意識と、靴に対する愛はここで培われたように思う。その美しい一足の靴は、いまでも細部にわたって克明に、鮮明に思い出すことが出来る。本当に美しい靴だった。あとで知ったところによると、その靴は(一時的に)イタリアでつくられたものであったようだが、私にとっての美しいフランスは、いまでもこの一足に集約される。

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