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 国が巨大すぎて一言では言い表せないし、私が生まれてからは日本とアメリカの反対側にあったので、その情報も限られたものだった。石油、天然ガス、石炭の埋蔵量世界一、砂糖(甜菜)の生産量世界一、小麦の生産量世界一、(もちろん)ライ麦の生産量世界一。中学校の地理の教科書で学んだことだが、とにかく資源の豊富な国である。そして社会主義という理想郷を本気で実現しようとした国で、東ヨーロッパや東南アジア、南米にまでその影響力を持つ。また、ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフといった世界的な物語作家を多く輩出した国でもある。ベルリンの壁崩壊以後、資本主義化が進み、その資源、特に天然燃料資源を元に豊かになる人々が急増した。

 イタリアやフランスに高級靴やクロコダイルのカバンを買い付けに行くと、必ずロシア人バイヤーと顔を合わせる。彼らはとにかく大量に買い付ける。特に二〇〇九年三月からの金融恐慌までは、それは派手なものだった。とにかく珍しいもの、派手なもの、尖ったもの、変わった革、普通ではないものをまとめて買いまくる。そんな豪快なバイヤーたちがたくさんいた。聞くところによると、仕入れるそばからいくらでも売れていくらしい。それも、どの客もシュートゥリーや靴クリーム、靴と共革にしたベルトなど、靴と一緒に勧めたものはいくらでも買ってくれるということだった。(寒い地域が多いので、ファーの内張りがしてあるシューズやブーツも人気で、殊に防水に関する商品は飛ぶように売れるということだった。)ロシア中に金が余り、それが急速に循環していた二〇〇七年、二〇〇八年のことだ。うらやましいのか何なんだか訳のわからない心境で見ていたものだ。

 その巨大な国土と人口を持つ大国の靴文化については情報があまりないのだが、成金が多いだけあって、品の有る無しはともかくも、とにかく見たことのないようなデザインの靴が売れるらしい。きっともともとはそれなりの靴文化があったのだろうが、長い社会主義時代の間に衰退してしまったのかも知れない。全体的にとても寒く、しっかりとした靴やブーツがなければ生きていけない環境だし、古くからたくさんの貴族がいた国だ。金に糸目をつけない素晴らしい靴が存在していたに違いない。

 それを裏付ける事実のひとつに、ロシアンカーフの逸話がある。

 一九七三年に発見されたその革は、一七八六年代帝政ロシアの時代に沈没した船のなかにあった。それも二百年という歳月を経てじっとそこに眠っていたのである。ロシアでなめされたその革は独特のシボを持つ厚くしなやかで、まるで別世界のもののように美しかった。沈没船を引き上げ、その革の包みを開いた瞬間、バラのような、植物の持つ新鮮でみずみずしい香りが立ち上ったという。トナカイのものであると推測されるその革は、大変手間のかかる方法であるが、植物のシブ(タンニン)を用いてなめされたもので、その芳醇な香りからローズカーフと呼ばれもした。そのニュースは、革は永遠の命を持つことを再認識させてくれたのみならず、数百年の歳月を経て当時以上の価値を獲得する、つまりアンティークになるものであることを証明した。イギリス・ロンドンにあるいくつかの由緒あるビスポークシューメーカーがその革を手に入れ、各上顧客たちのために靴を仕立てたところ(そこにはイギリスのミュージシャンであるミック・ジャガーやブライアン・フェリーが含まれていた)、その噂を聞きつけた多くの人々がそれを求めに来店したらしい。彼らがロシアンカーフで仕立てた靴を求めたのは、ただ単に希少な革であったからではないだろう。そのロマンを手に入れたかったのではないかと容易に想像できる。時を越えた、人智の及ばないロマン。

 ロシアンカーフは未だに現存するが、それを手に入れるのは至難の業である。

 結局、いまや我々にとって、靴や洋服を求める理由はそこにあるのではないだろうか? 寒さや日差しから身を守る服、移動する際の足(ひいては身体全体)を保護する靴など、必需品としてのファッションは皆すでに充分持っているではないか。記号としてのネクタイ、ズボンがずり落ちるのを防ぐベルト、首元から逃げる熱をキープするためのマフラー、紫外線から目を守るサングラス、時間を知るための時計など、機能だけで言えば、都内のちょっとしたレストランでの食事代くらいの金額で充分なものがすべて揃ってしまう。両極化が進む日本のアパレル業界においては、言ってみれば世界一コストパフォーマンスの高い、そして衣料品大国となっている。外国人は、銀座の「ユニクロ」に行き、その後「和光」に行って二度びっくりする。安い!高い!

 「銀座和光」においてある商品はすべて付加価値の大きいものばかりである。たとえばセーター一枚を買い物するのに、何人ものスタッフが甲斐甲斐しく奉仕し、動き回る。買う方は大きなソファーに背をもたせ掛けて座っていればよい。気の利いた上品な会話でリラックスでき、安心感に満ちた思いで買い物することができる。購入した商品は素敵なパッケージと分厚い紙袋に入れられて渡される。そしてセーターそのものは歴史ある信用により間違いなく一流品であることが納得できる。結果的に満足感に溢れた爽快な気分で店を後にすることとなる。それらは量販店やジャンクショップでは得られないものばかりである。

 いまや世界のいろいろな場所に旅行すると、多くのロシア人たちが同じように旅行している。日本の最高級レストランはロシア人ばかりという話も聞く。現地の人にロシア人の話を聞くと総じて評判は悪い。金は使うが礼儀がない、行儀が悪い、節度がない。民度が低いということになるのだろう。しかし何故だろう? 社会主義社会の弊害であろうか。いずれにしろ、個人的には、偉大な文学などに触れるにつけ深い敬意を抱かざるを得ないのだが。そしてロシアンカーフの素敵なロマンを思い出すたびに、身が引き締まる思いがする。私が従事している仕事はこのようなロマンをお客様にご紹介することなのだと。

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