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【エッセイ】#18 勘違いの自信が生み出す地獄

 勘違いは誰にでもあるモノ。

 だが、勘違いの自信は、周りが厄介に感じるものだ。
 ときには必要だという人もいるが私はそうは思わない。本人にも他人にとっても百害あって一利なしだと思う。
 だからこそ、勘違いの自信を持っている人を見つけたら、全力で逃げることをおススメする。

 まず、勘違いの自信とはなにかを定義づけていきたい。そのためには、言葉の分解し、理解を深めていく必要がある。勘違いの自信とは、「勘違い」と「自信」の二語から構成されている。なにを当たり前のことをいっているのだと思うかもしれないが、こういった細かい作業が深い理解につながるので疎かにしては、いけない。……多分。

 「勘違い」だが、これは勘が間違っていることを意味している。
 Weblio辞書によると「事実とは違った風に理解・認識すること、および、そのような状況のこと」と説明されている。そうなのだ。勘違いの「勘」とは、「事実」と置き換えることができる。辞書でも言及があるとおり「事実を間違って理解している」ということなのだ。

 では、後段の「自信」について、見ていこう。
 同じくWeblio辞書では、「人間が自らの能力、知識、信念などを信頼している精神の状態を意味する」とある。つまり自分自身の能力や知識、信念などに対して信頼を置いている状態のことを指すのだ。
 って、同じことを偉そうに繰り返し散るだけやん。はずかしい・・・。

 では、この二語が連続することによって、どのような意味が生じるかを見ていきたい。「勘違い」の意味である「事実誤認」と「自信」の意味である「自らを信頼すること」を合わせると、「事実誤認していることを自ら理解している」となる。

 ん? と、思わないだろうか? 事実誤認していることをしっかりと自らが理解しているのであれば、これは頭脳が明晰な状況だといえるのではないだろうか。むしろ、「無知の知」を説き、生涯真実を希求したソクラテスにつうじる信念があるモノではないか。

 ……という、コトバ遊びはこの辺にしておいて、きちんとしたお話をしよう。

 すでにお気づきのように「勘違いの自信」とは、「勘違い」の意味である「事実誤認」の「事実」の部分が「自信」に対応しているのである。つまり、「勘違いの自信」とは、「自信誤認」であるといえるのだ。もっとわかりやすくすると、「自分を信頼するという行為を誤って認識している」=「信じているモノが誤っているのは、みんなが知っている」ということになる。

 字面だけ見ても恐ろしい状況である。「みんなが、間違っていることを知っているのに、信じているのは自分だけ」という状況なのだ。
 言わば、裸の王様。
 こんな状況に置かれるのだけは御免被りたい。恥ずかしすぎて、穴を掘ってその中に入り、自ら埋めたくなるほどだ。


 ここまでツラツラと説明してきたが、「勘違いの自信」の恐ろしさがわかってもらえただろうか?
 え? 最初っからわかっていたって? あなたにもこの恐怖を味わっていただくため、しっかりと説明をしてきてよかったこれで次に進める。
 
 今回の話の本旨は……、なんだったけ? 

 あ、そうそう。
 勘違いの自信は、本人も他人も百害あって一利なしというものだ。
 ここまで遠回りな説明をしてきたのには意味がある。……と、思う。
 
 これまでの説明から本人や他人にとって「勘違いの自信」はどうなのかを再度見てみよう。

 まずは他人にとって「勘違いの自信」はどのように映るか考えてみたい。先ほども説明したとおり「勘違いの自信」とは「みんなが、間違っていることを知っているのに、信じているのは自分だけ」ということなのだ。
 他人から見れば、正直、どーでもいい話なのだ。だが、「勘違いの自信」に基づいた発言のベクトルが、こちらに向いたときは非常に厄介。

 間違っているのは、「勘違いの自信を持った人」であるにも関わらず、こちらが間違ったように指摘したり、攻撃をしたりするのだ。
 その際に「勘違いの自信を持った人」の間違いを指摘しようものならば、烈火のように怒り出すことは間違いないだろう。かといって、面倒くさいからと彼の間違えを正さないでおくと余計に話がこじれることになる。触れても、触れられても地獄とはこのことだろう。だからこそ、ベクトルがこちらへ向かないように距離をとることが最善の策なのだ。


 では、本人の目線で考えてみよう。「本人だけが正しいと信じているが、みんな間違っていること」であるため、明らかに裸の王様である状況であろう。
 先の他人の目線から見た場合と同じく、触れたり、触れられたりすれば厄介であると認定されている人に近寄ろうか?
 もちろん、周りには人が少なくなっていく。

 では、それでも「勘違いの自信を持った人」が近寄っても離れない人とはどういった人であるか?

 それは、彼をおちょくっているか、玩具として楽しんでいる、またはカモとして見ている人だろう。ここまでくると「勘違いの自信を持った人」に憐憫すら感じるが、決してかかわってはいけない。

 これまで見てきたように、「勘違いの自信」は自分も他人にもいい印象、人間関係、環境を生み出さないことになる。悲しきかな人の思い。

 自信はその人をより輝かせ、成長させるものである。だが、「勘違いの自信」だけは持ちたくないものだ。
 
 と、まあ、こんな意味のあるんだか、ないんだか、よくわからない思考や文章をツラツラと書いております。
 今後も遊んでやってね。

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