Ever-note(いぬのせなか座 連続講座=言語表現を酷使する(ための)レイアウト 第4回「小さな灰色の矩形」)

たしかに、ピアノを弾くのもきゅうりを刻むのも好きである(ボールは遠くに投げられないし、踊りもただしく踊れないけれど)。その晩はとにかくメモを取るのだということを気づけば両手と両耳が決めている。精確なゆびさきの踊りに浸りきる幸福。瞑想。環境にふかぶかと沈みこんだあとのアンプロンプチュ。耳管の奥にひろがるなぞめいた系が、ひとりでに意味を圧縮して吐き出してくれる。そのあいだわたしはどこにもおらず、あまりにわたくしに満ちて自由だ。3時のおやつのことを考えながらピアノを弾いてしまった場合、いつまでもコーダに辿りつけないことがある。でもメモを取るのであれば、その心配はまるでいらない。すくなくとも帰り道にぎょうざを食べるかかつ丼を食べるか考えたりはしない。この耳が終わりまで連れていってくれるから。聞きもらすまいとするあいだ、すべてがわたくしにゆだねられているので、ただうっとり指を動かせばいい(でも、実際のところなにが起きているのだろう? 聞こえた語を圧縮し、書き、消し、書き直し、まとめなおし、順番を入れ替え、ぐずぐずと誤字をなおし、たまにTwitterをチェックし、別のことを考え、これほどに聞くことは即興的なのに、どうしてわれわれは日高屋でぎょうざ定食を食べながら、あの語りについてしみじみと語り合えたのか。あるいはその晩のTwitterで、あたかもおなじ語りを共有したかのようにコメントを述べあえたのか)。

メモをつづけると細部を取りこぼすことが惜しくなり、全体の姿が少しだけ揺らぎ、まあでも細部がわかれば全体もそれなりにわかることが多い。メモ以前のわかりかたが、潜在的なメモのかたちに依存しているような気もする(わかってからメモ? メモしたときわかる?)。メモを取るとき、PCの画面しか見ない。Ever-note. ずうっと-メモ。発話者を見ていないのに判別することはたやすい。声色によって知るのではなく、これまでテクストにおいて出会ってきたあなたたちの語りの構えを知っているので、わかる。他方で声が遠くなり、指が止まるときはさまざまにある。知らない固有名詞に出会うとき。あるいは、漢字の変換に手間がかかるとき。光と死後。光と死後。光と死後。致命的なのは、語りが図について説明しているとき。語りとはどうしたって線的で、レイアウトに対してたいへんに非力である。きわめつけは、あなたがホワイトボードの板書を指してしゃべっているとき。板書と発話がこんなにもとけあっているとき、片方が欠けると残りの意味がまるで通らない。視線をPC画面に落としていると、やがて耳管の奥の系が動作をやめる。そして板書を見上げ、メモはよろこばしくも置いてけぼりになる。

——メモ:2019年5月19日、三鷹——

* 鈴木:情動が抑えられている。一言で表すことのできる行為を離れたところから記述するだけで作品を終わらせる。終わってしまった。読み手が作品に入り込めない距離感。読むとき、読み手は記述を換言する。本来、表現は言い換え可能ではないはず、であるにもかかわらず。問い(表現)と答え(こういう行為をしている)。減喩と明示法。
* 吉田:そういうやり方を作風としている人もいる。おくむらこうさく(ただごと歌)。メッセージ性を込めませんよ、という身振りがメッセージ。
* 鈴木:エモのハードルが下がる。
* 吉田:象徴性を落とす。おくむらの三菱のボールペンの歌。そこをあえて歌にするという身振りによって歌になる。これをあえて最初にやったのがおくむらであるというのが短歌史上の定説。
* 山本:隠喩にならないようにする。隠喩は必然性をもたらす。謎。このテクストにはなぜここにこう書いてあるのかという謎の答えを置いておく。答えに行くことでエモーショナルな感覚が達成される。容易に表現として固められる。では、そうじゃない必然性をどうやって求めるか。散文に置かれた何気ない一文と短歌の区別のつかなさを以ってして表現ではないと言えてしまう可能性、不安をどう解消するか。
* 吉田:隠喩盛ると書く側もカロリー使う。そういう土俵で戦うつもりはない。短歌史的には、人生とかエモ、切実さを、大事そうに差し出すことが大事。作者を尊重しながら歌のやり取りをしている、というのが短歌の人たちのフィールド。それが疲れるんすよ。
* なまけ:語り手が人であったら実現できない歌がある。カレーの歌のズームイン。体言止めで感情を排す。
* 山本:人生やエモはないけど知覚はある。
* h:私は1章と3章のデザインを担当。四角のオブジェクトを置くと決定した。どのサイズの箱をどこに置くのか、根拠にしたのが、見開きの中から選んだ最も印象的な語。それが光と死後のチラシで赤くハイライトされた文字。
* 山本:1章は見開きで1フレーズ。3章はもう一工程増えて、もう1つ選んでいる可能性がある。それに応じて丸を配置する。3章の方は丸の位置が移動する。1つだけ選んでいるときは隣に配置、2つ選んでいるときは移動している。説明がむずかしいが。
* h:実作の体験から言うと、自分の中で語のイメージは強くある。見開きのなかへの語の印象からデザインをすることに心理的抵抗はない。山本くんはできないと思うが。
* h:配布のレジュメについて。大和物語、姥捨の段。「我が心なぐさめかねつさらしなやをばすて山に照る月を見て」文字上の意味は薄い。入り込んで読んでいくとこれだけじゃないじゃんと思った。何が含まれているのかを紙面の下部に書いた。光と死語の「これまでの恋人が全て埋められているんだここが江ノ島だから」も同じく……私は江ノ島のすぐそばの学校に通っていた。この歌にもこれ以上のものが入り込んでしまっている。そういう語彙がたくさんある。
* 笠井:hさんが言っているのは、場所やものから記憶を呼び起こされることと、短歌の語から呼び起こされること、が似ているということ。これは、山本くんの主観性の議論に接続可能。わたくし性とは別の、主観性、物性、などはどう機能しているのか。
* 山本:語り手を先において語っていると解釈するのではなく、テキストという構造物が身体に対してどのような知覚を生み出すか、というのが言語表現。言語表現には絵や音楽と違って知覚情報が含まれていない。なのになぜ文章を読んだときに感覚が生じるのかというと、それが指示書として機能するから。触発の傾向。これが主観性、subjectivity。言語表現においては、わたくしの外でそれが触発されてくる。思考し、表現し、判断しているわたくしというものを立ち上げてくるもの、としての主観性。これと対になるのが、物性、objectivity。韻律とか定形。意味とか表現者の感覚的な問題に還元できない、物理的な拘束性。この二つが表現においては組み合わされている。短歌においては、定形に依存していたものでしかなかったのが、わたくし的なものの表現の手つきになってしまう。それらが誤認される。わたくしという問題が言語表現につきまとっている。機械的に並べられたという法則しか把握できなければ、表現として知覚できない。表現において、ランダムに語を並べてテクストを作ることだって可能。しかしこれを読むときにはわたくしを立ち上げないと読み手は表現として分かることができない。デザインの話でいくと、hが自分の判断によって選んだもの、を本人も忘れる。偶発的で、私的なもの。デザイン全体を考えたときに、いかにして短歌をレイアウトするかという問題。短歌というのは一本の屹立した動かしようのないレイアウトとして完成されている。散文だったら組版だけでもいろんなやりようがあるが、短歌は基本的には改行されない。結局どうやってデザインが短歌に介入できるのか。フォントや紙をきれいにすればいいじゃん、となってしまう。現に、強く介入された本はない。いぬのせなか座が手がけた加藤治郎さんの本ではオブジェクトを配し、また、詞書と短歌のサイズを同じにして区別がつかないということをやった。短歌を読むときにリズムを探してしまう、という定形の枠、その運動自体を散文の側にも適用してしまう。その延長線上で、『光と死語』では、短歌の外の場所、短歌と短歌の間、紙面上で生じている規則、そこに手つきが存在しているように「見せる」ということが重要だった。そこには何かしらの規則が働いている、と見せること。感想などを見ると、オブジェクトによって読み進める時の感情が増幅されていていいね、などと言われるが、実際には機械的な側面が大きい。どこまでが表現で、どこまでが規則なのか把握できないままに立ち上がる。規則性、物性、と、紙面上の規則性、が混ざっちゃうところにいたらどうなるか。その紙面が主観性を立ち上げるとき、テクストだけ読むという受容の仕方と、どのように違うのか考えたかった。デザイン面でもそれをやっている。わたくし、というものを批判的に受け止めて処理する、ということとシンクロ。わたくし、が立ち上がってしまうとき。エモじゃなくてもいい。しかし何かしらが判断させる。増幅されない形でやる。適当に持ってくるわけではなく、何かしらが行われている。
* 吉田:短歌的なわたくし性の話をしたが、作者としての吉田に落とし込みたくない、というのが長年の取り組み。プロフにも情報を書かないようにしている。歌集とも書いてない。私が介入せずにどうやって主観性を立ち上げるのか。それを汲んでもらえたのは良かった。
* 笠井:人生がエラーとして立ち上がってしまうこと、それを切り離す方法。機械的な操作。結果的に紙面に現れているもの、の上に明滅するルールの束、のようなものが出来上がってきている。それは動線の議論にもつながってくる。

——18:25-35 休憩——

* 笠井:(資料投影)機械学習、データ分析。わたくし性の切り離し。擬似的に読み手が何も考えずに読むみたいなことを実現できる、と見て欲しい。左のグラフ。元のデータは、国立国語学研究所、のコーパス。分析の素材集的なもの。分析用に有料で販売している。性質ごとの順番に並べている。上から下にいくにつれて。日常>ニュース>>>・・・>自治体広報誌>白書>新聞。これらと、光と死語の、名詞・動詞・形容詞類の出現率を示した。青が名詞が全体と比べてどれくらい多いか。オレンジが動詞。緑が形容詞。一番上の日常談話は、この全体と比べたときに、普段の話し言葉は形容詞が多いという特徴。広報誌などは、名詞が多く、形容詞や動詞が少ない。ここまでが先行研究。これと、光と死語を比較した。韻文というよりは、図書館の蔵書に性質が似ている。ベストセラーの言葉よりも国会議事録に近い。歌集だけれどこの位置付けになる。品詞の出現率しか比べていない。光と死後は韻文と比べるとわたくし性からの切り離しが功を奏しているのかも。右側の図は、時系列順に並べている。短歌それぞれを、肯定表現・否定表現がどれくらい出ているか検査できる。googleのもの。これを連作単位で合算し、連作順に並べた。起伏としては読者に親切。最後に終わらせにかかっている。連作の単位、歌集の単位で俯瞰したときにどのような時間的推移があるのか。分析することで、共同性、再現性へ。
* 吉田:連作内での組み合わせかたにはセオリーがある。が、自分は得意ではない。無理やりやったのが、「鈴木〜〜」。「私信は届かない」は新人賞で最初に残った連作なので・・・
* h:自分も、終わらせにかかるという方法をだんだん学んでいっている。手業。これが分析で出てしまうなら怖い・・・
* 吉田:最後の連作はもともと30*2くらいの分量があって、それを削った。落とした部分にネガティブな要素が多かったのかも。歌集を作る段階で減らしたので。
* 山本:連作単位での批評って? 1首を抜いて論じないと細密に分析できない。連作単位での分析って必要なはず。第2章は特異。
* 吉田:1章3章は小説的な起伏を一応模している。そうした要請によってしか読めない。ストーリーが読めないといけない。それを作るのに手っ取り早いのが人生。
* 山本:hさんが言ってた、散文の蓄積とか、江ノ島の記憶の蓄積、によって情報が立ち上がってしてしまう。連作、歌集、著者名、によっても。一首が独立して成立しないところをどうやって操作するか。わたくしの人生みたいなものを用いずにどうやってやっていくか。複数の短歌を束ねる土台としてわたくしの人生があるとして、そうではない、人生以外でどうやってそれを成立させるのか。ト書きは方法論がはっきりしているので人生の代わりに機能している。
* 吉田:減らすときに心がけたのが、都市の立ち上げ方。生活している人間がいろんなところにいてもいい、仮定される主体一人のものでなくてもいい、とするにはどうするか。鈴木というのもそれ。
* 山本:人生を背景に置くのではないやり方での連作。成立の方法。とはいえテーマがないわけではない。考えようによっては重い主題もある。それは人生とどう違うのか。わたくしの死とか。重い。
* なまけ:連作をつなぐのは電車の地名。わかりやすい、知られている名前は落とす。でも吉田という語は使う。
* 吉田:山陰の、韻律の良さそうな駅名を抜いた。音声。固有名詞でけむに巻けないかな、と。吉田家も、実際にはそこにはない。連作のなかでは色々な方法論を試せる。でも一冊まるごとを貫通はしない。そういう歌集もあるが、多くはない。それだと「人生して」ないから持たない。上演を見ていることになるから。通しのコンテンツとしてそういう仕掛けをやるというのは。読む側も作る側も。コンセプトを解釈してもらうまでに時間がかかる。負荷が高い。作者名が岡井隆、吉増剛造ならいけるかもしれないが・・・
* 山本:この人だから読みます、というのは人生とどう違うんだという話。

——映像上映「6畳の白い部屋〜〜」——

* 吉田:2017年につくった。上演版もある。上映版の映像版。
* 山本:まんまだった。短歌そのまんま。
* なまけ:怖い。
* 吉田:上映を前提にしてつくられた連作ではない。ギリギリの現代短歌を出せ、というお題だった。固定カメラで連作を作るという試み。
* 山本:連作自体は短歌に背後にあるわたくし、が要請される。ぎりぎりの短歌、ト書きという形式。ト書きって変。舞台上に声として発されないし、作者にも登場人物にも還元できない。誰の表現なのかが宙づりになっている。それがお約束になっている。主観性に還元できない、ものが配置されている身体の関係性。テキストによって露呈される。それを短歌という別の規則に移したときに、物性同士の間でぶつかる。連作の中で6畳の白いへやにあなたが水平に横たわる、という歌にわたしという描写の主体を置くことはできるし、あるいは二人称を使っているがわたくしであると読むこともできる。後半になるとこれは崩れる。物質的な身体が、明らかにわたくし、あなた、から物理的に離れていることが明確になる。またぐというのが強烈。わたくしに還元できない。あなたがどう動いているのか、ト書き、これを短歌の形式でやったときに付きまとってくるわたくし、とあなた、の分裂が後半になっておこる。映像の中でもそれがまんま。最初はおなじ人物、映像の中の、過去の人の声の指示を受けて、手前の人物が動いている=ト書き。わたくしの内部分裂のようなものが映像においては強調されている。これは短歌という定形とト書きの定型を衝突させたときに生じるねじれから生じている。これは歌集全体のわたくしの用い方にも通底する。
* 鈴木:光と死語を出すにあたって・・・短歌を読むときにここで切れる、吉田さんの短歌はそれをはぐらかす。例えば電車の連作を読むときに、どう読むと短歌になるのか。定型は必ず守らなければならないわけではない。短歌の定型に対して、吉田さんはどう思っているのか。
* 吉田:2章に関しては1首の屹立性をどこまで薄くできるかというのを考えてつくった。1首だけ抜いても仕方がないようなもの。1首分の分量と情報量は違う。増やしたり減らしたり。1首ですという顔をしてしれっと出す。作者が短歌だって言い張れば短歌になる。短歌っぽい発話がそもそも何というのもポエトリーリーディングが流行っているので熱いトピック。句またがりが多いので分節すると意味が通らない。七五で区切ると朗読の技術として拙くなるのをどうすればいいのか。百人一首みたいに歌うわけにはいかないし、どうすればいいのか。ただ、音に関しては、要請がない限りは意識しない。情報量を減らす方向に向かいたいというのが今の作り方。リフレインを入れて情報を埋めるとか(作るときの定型に対する態度として)。
* 山本:普通に言葉を入れると意味を読み取ってしまう。リフレインは意味を求めない、規則として受け止められる。例えば、丸を並べるという短歌。規則に還元される。情報量を増やすことを良しとする人たちもいる。減らしたときに何が起こるのか。増やす方向でいくと、人生豊かな人が増やせる。背景を増やせば。身も蓋もないけど。情報量を減らすのはそこもあるかも。歌の技術に関係ないものを削ぎ落とすというか。連作とか主題というものは扱う。そこの違いは操作可能性というか、何を使えるかということにどうやって焦点を当てるか。人生とかは短歌の技術とは直結していない。短歌の情報量を増やすために人生を頑張る人もいる。
* 吉田:人生やっている人がいるから、自分は人生やらない派って言える。
* 山本:作者いるなかで歌会やるという文化もある。
* 吉田:近況報告的なものもあるが、そうではないという前提で歌会のディスカッションをやるのが大事。無記名のマナーでは、あの人は外国に旅行行ったんだと知っていてもその話はせず、テクい話だけをする。ある程度はテクさのパターンがある。短歌は短いから。それを連作や歌集に持ち込むと、途端に人生の話になる。
* 山本:技術的な話を連作や歌集にどうやって展開するのか。実作レベルからそこを探るというのがあるのかな。ト書きも抜けば短歌として読めるやつもある。連作として二人が住んでいると読むことができるというレビューもある、そういう風に読めるんだとも(意外に)思った。そうやって把握することで読みを立ち上げられる、という部分もある。連作に定型がないからテクい話ができないのかもしれない。
* 吉田:フォーマットで強く働いているのが人生。
* 山本:人生も定型の一つ。言語、文字というのも。それらの編み合わせ。詩手帖のフォーマット20字とかを新人はやっていくので・・・が流行るとか。
* 鈴木:フォーマットが持つ抵抗感とかは詩にはあんまりない。物質性。それほど作者への執着はなく、これを排さないと逆に読めない。短歌や俳句は、情報量に沿って終わらせないといけない。これが逆に物質性。ルールの方が物質。
* 吉田:人生は物質として扱いたくない。倫理や道徳に結びつきやすいので、嫌だ。
* 山本:倫理の話に結びつけて共有しやすくしている。・・・わたくしや人生を排すというより、素材としてどうやって用いるのか。作者性を否定する、というのには辟易している。そこから先に行くには、素材としての私の扱い。素材として、制作対象にできるか。ぐずぐずでやるんなら、短歌内部で生じた技術が見づらくなる。人生を歌っている歌でも技術的に優れたものはたくさんある。ものを作る過程としてある。ただし受容のときにどうするかは別で、素材としてどう扱うのかという話をしないといけない、ベタなフィクションかノンフィクションかみたいな批評になってしまうのが問題。詩における物質性が言葉そのもの問題として出がち。
* 鈴木:何かを規定するということから逃げていくなかで詩はできている。とにかく規則で縛る。その結果、俳句で詩を書こう、と。
* 笠井:情報をどこまで知っているか、投入して読むか、切り離すか。倫理。デザイン・・・
* 山本:リテラシーの話。テキストを読むときの情報、どれくらい読み取れるか、その設計。人生を描いているというとき、本当はそれを描きようがないとき、テクスト以外の描き方、歌人の情報の開示。
* 鈴木:人生が物性、のポジティブさ。作者の人生みたいなものを素材とするとき、これを用いて何かできないかとすら思う。
(*k:ポールオースター、ティムオブライエン。) 
* 吉田:リテラシーとして前景化して、人生を辿ってわかった気になるのがダメ。
* 笠井:まとめにかかると、連作より上のレイヤーに行くときに人生の話になってしまう、その空白地帯。掘っていく鉱脈がそこにある。

——PCの電池残量がわずかになり、タイピング速度が急激に落ちる——

* 山本:hさんの引いた姨捨山、それで情報が増えちゃうというベタな話は、短歌って言ってもそれ以外の操作、デザイン、だやさんが出したという事実、テキストが純粋な作品として樹立しない。その辺を操作する、連作を規定する、人生、リテラシー、が短歌の外と地続きである。つまり、短歌の中の人生、だけでなく短歌以外でもできてしまうということが肯定的にもなりうる。それを前提した上で、他の諸々の人生、においてあまりダイレクトに扱われていないところが扱える。浮き彫りに。人生以外のものを作る。情報量増やすのではない方向でやっていく、というのを短歌がどうやるか。
* 鈴木:散文を要求するとき、詩を並べ、まとまりをどうやって導入できるのか。
* 笠井:次回は散文を。他のジャンルに広がった議論。人生などにどう影響を与えるか。

——聞きながら書いたメモ終わり。あとは当日の雑感——

* 人生をやらずに情報を薄める、というテクもひとつのエモさ、読みに際して立ち上がるドラマに寄与している、そうして『光と死語』は読ませる書物たりえている……読んで素朴にエモいと思った テクくて侘びた美学の埋め込み、決して機械的な文字列ではない あんまり人生じゃないけどエモ 人生の代替物は存在してしまう

* デザインについて 恣意を排して機械的にやっている、というだけでは説明しきれない優美さ フェティシズム(天命反転住宅的なキッチュさから遠く離れて……)どうして美しい書籍を作るのか 美しさの機能性……

* 連作以上のレベルで人生を排してテクさを批評するという話 しかしどこまでスコープを広げていけば嬉しいのか 人生を排しつつ一冊の範囲すらも飛び越えてテクい話をすることはもちろん可能だが……どこかで頭打ちになる以上、連作レベルで止まることが取り立てて問題でもないのでは むしろ短歌に限らず、人生を書いていくとどうして長大なテクストを成立させることがこんなに容易なのか 書く側も読む側も人生であればいとも簡単に物語を見出すことができる

* 「ト」……語が略されていると前の主語を引き継いで読むのが普通なので、まんま読めば、初読だと、たぶん途中まで映像は二重化しない 「いないときのあなたのことをよく知らない」という種明かしで「あなた」の所在が遡及的にねじれていく 「携帯のデフォルトのアラームをかけ、水平な姿勢で横たわる。」のあと、冒頭に戻ると、再びねじれて元に戻っている 「昨日のことはいくらか覚えている。床は白くて床は冷たい。」メビウスの輪のようにつねに両方の定点から読める 短歌の型に則っているので、次の1行では前の主語をしれっと引き継がないことができてしまう

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