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MIMMIのサーガあるいは年代記 ―22―

「神輿が勝手に歩ける言うんなら歩いてみないや、おぉ―」
映画『仁義なき戦い』より

  22/n

    皐月の終わり頃  ―人魚の涙(2)―

 その七日後です。
 皐月さつきですが旧暦表示ですので、入梅もまもなくと思われる空模でした。雲が低く垂れ込め、下腹まで響くような、しかし脅えるほどもない遠雷が渡ってきていました。稲妻も目に入らず、雨が降り出す気配も乏しい陰気な天候の午前です。
 こんな朝、五人の求婚者に課され難題の締切期限よりずいぶん早く、山本三郎が蛸薬師小路たこやくしこうじの正門前で邸内に入れろ入らせない、とヒロコーたちと押し問答をする騒ぎを引き起こしています。

 この問題の責任者にされてしまったオフィーリアが呼び出されます。締切期限よりも一週間も早いうえに、桃子に面会する資格を得るために入手を指定された品々を手に入れられず諦めてしまう、と誰もが予想していたので彼女は狼狽え、彼が指定された品にクレームをつけに立ち返ってきたのか、と勘ぐりましす。山本に課されたのは,「人魚の涙一升」(約1.8リットル)です。

「いったい何事ですか」彼女は本来の自分の性格に似合わない居丈高な態度を装って対応し、ヒロコーが説明します。
「あの莫迦ばかが指定の品を手に入れたので、桃子様に合わせてくれと言い張ってます。人魚の涙をですよ」こう彼は答えると、目を大きく開きぐるぐると回してみせました。

 山本は大きなペリカンの耐衝撃コンテナを台車に載せて、それを指さしています。周りには彼の後援会のオバチャンたちばかりでなく、テレビカメラが数台まわっていました。 三台のカメラにはBBC、CNNとPeople誌のロゴが貼ってあり、カメラマンたちの疲労ぐあいからすると、七日前に山本がここを立ち去ってから今まで同行密着取材をしていたのかもしれません。「人魚の涙一升」を手に入れて、桃子への面会権を手に入れて勝者第一号になる顛末を、感動的にあるいは嘲笑的に編集したビデオ映像を制作するのでしょうか。

 オフィーリアもこんなものは入手不可能と考えましたので、ずいぶん戸惑います。長い思案の末、袖口に隠したマイクでエリカ、ナナミンとロドリゴ、それに天野に同時交信で連絡しましたが、ややこしいことになりかけているが自分の責任で処理できると考えたので、お婆さんの手を煩わすまでもないと判断して、連絡はしていません。
「山本が正門前に来てる。みんな邸内警備を強化して。大会議室の準備もして。それとヘリを一機、緊急離陸できるようにして。二十分後に彼を会議室に送り込みます」彼女が要請すると、それぞれから間を置いて戸惑った口調で返信がありました。

 ヒロコーには次のように言いおくと、事業棟の方へ急ぎ足できびすを返しました。
「十分後に潜り戸から本人だけを入れて……やっぱりピープル誌のカメラマン一名だけ通して。プロデューサーはだめ。もちろんこの前のように厳重な身体検査をしてからです。そうそう、カメラマンに邸内を撮影させないように会議室まではビデオカメラを取り上げることも忘れないで」

 それからやっと半時間余り経ってから山本が大会議室へ台車を引き摺って来ました。定められた白い防護服のようなものを身に纏っています。オフィーリアを初めとするする三人娘にロドリゴが待たされて苛立たしそうに室内を歩き回っています。ヒロコーと「パワー・ショベルで……」が口癖のお兄さんも、この顛末に強い興味があったので室内に居残っています。ピープル誌のカメラマンは先に入室し、ビデオ・カメラをまわして待ち構えています。

「指定した品物を……人魚の涙一升、手に入れて戻って来たということですね」
 オフィーリアが刺々とげとげしく訊きますが、山本はニヤニヤとペリカンのコンテナの角を撫ぜるばかりです。焦らしているのか答えをはぐらかすつもりなのでしょうか。

 エリカはズボンのベルトの位置に隠した例の鉄鞭に手を遣っています。ナナミンは左の袖口に右手を入れています。二人とも、山本がふざけたことを口にしたら、それぞれ鉄鞭を振り下ろし、棒手裏剣をお見舞いするつもりです。いや、それをする口実の切っ掛けを出してくれないか心待ちにしているのでいるのです。求婚者五人のなかでも一番莫迦な上に、実力の伴わない驕慢を憎んでいたからです。「パワー・ショベル」のお兄さんは、何年かぶりに口癖どおりの趣味を兼ねた仕事ができる、とワクワクしています。
 一方、山本はこういう場面に場慣れしているのかカメラの位置を気にしながら芝居がかって、七日前の約束に間違いないかエリカに確認し、返答を引き出します。彼のさかしらな口調に、蛸薬師小路家の従業員全員がさらに腹立ちます。

「このコンテナの中に『人魚の涙』が2リットル入っています。衆議院議員の山本三郎、〇〇〇省政務官の山本が、この七日の長きにわたり世界を不眠不休で駆け回り、桃子さんのために、この人魚の涙を入手してきました。この例に現れたように行動力のある、わたし山本三郎は政治家として国民のみな様に、現下の国内政治の混沌を切り開くため前々からわたくし山本が提言しました五つの大改革、三十の小改革の実現にむけて……」

 彼がとくとくとしゃべっていると、ヒロコーが山本の横、カメラマンとの間を通ってオフィーリアが立っている演台の方へよろよろと歩き出し、まるでバーチャルなバナナの皮に滑ったようにカメラマンの方へ倒れ込みました。身長2メートル以上、体重130㎏の巨体に勢いよくのし掛かられたのですから、カメラマンもたまったものではありません。ヒロコーの下敷きになり、後頭部を強打します。ヒロコーは起き上がり際にもう一度よろめいて倒れ、カメラマンの手から離れ飛んだビデオカメラに肘を振り下ろし、ピンポイントでレンズ部分を壊しました。
 ヒロコーの見えすいた芝居と同時に、エリカの鉄鞭がコンテナの手持ちハンドル部分を微塵に砕き、橋本七海の棒手裏剣二本が山本の左脚のズボンの裾を床に縫いつけました。
 山本はすべての動きを止めます。後年、彼が述懐したところによると、あの時ばかりは心臓も止めてしまいたかった、と言うことです。

「くだらない演説は要らねーんだよ。このハッタリ野郎。とっとと見せろ!」エリカが、一撃の後で山本の股の下まで伸びた鉄鞭の先端を、床にピシパシと打ち付けながら怒鳴りました。山本の返事次第では、鉄鞭の先端がコブラの鎌首のように跳ね上がり、彼の体のどこかを切り裂くはずです。
 ヒロコーは、「大変なことしちゃった。危ないなあ。この人大丈夫かな? 医務室へ連れていかななきゃ」と、カメラマンを肩に担ぎ上げ、レンズだけが壊れたビデオカメラを拾って部屋かから出て行きました。
 後日エリカは、あいつもやっとなんとか使えるようになった、とヒロコーを褒めたということです。他人の評価に厳し彼女にしてはめったにないことでしょう。

「せっかくいいところだったのに。見せますよ、見せますよ」
 彼はいま身の回りで起きた一連の出来事から、尋常でない場所にいること、政財官界の黒幕と畏怖される人物の屋敷内に一人でいることを思い起こしました。いくら鈍感で厚顔無恥な彼でも、怖じ気づくには充分でした。しかし気づくのが遅すぎですよね。
 山本はコンテナのダイヤル鍵を解き、スポンジ・クッションで保護された魔法瓶二本を取り出し、オフィーリアがいる演台に持っていきます。
 本筋にまったく関係のない余分なことですが、この魔法瓶のメーカーは、象印とタイガーでした。小惑星イトカワからは「やぶさ」が持ち帰った密封容器のメーカーはこのどちらかでしたね。

 室内の視線は、オフィーリアの手元に集中しています。彼女も痛いほど視線を肌に感じています。
「この二本に本物の人魚の涙が入っているんですね」
 山本が黙ってうなずきます。
「本物かどうか確認します」オフィーリアがこう言うと、エリカたちが小さく声を上げます。人魚の涙が本物かどうか確認する方法などは、予め打ち合わせしていませんでしたから。どんな方法で判定するのでしょうか。

 ゆっくりと魔法瓶の蓋をとり、蓋口をのぞきくと、液体がいっぱいにつまっていることはわかります。
 ここで予想外なことにオフィーリアは、演台の下から白色プラスティックの広口瓶四本、スリー・エムのマジックテープと朱肉を取り出しました。広口瓶は薬局で散薬などを入れている500ccの容器です。他の者には意図がまったく理解できず、ただ見守るばかりでした。
 彼女は、一本の魔法瓶の液体を広口瓶二本に分けて入れ、計四本の瓶にマジックテープで蓋と本体を固着します。マジックインクで貼付ラベルに日付、現在位置、時刻、自分の名前、魔法瓶のメーカを記入します。その上でテープとラベルのそれぞれに朱肉を付けた拇印を割り印として押します。山本にも同じように割り印を押させました。

「これで同じ魔法瓶から人魚の涙を四本の瓶に分けました。このうち二本を公的な研究機関に分析に出します。割り印があるので、分析前に手を加えることはできません。残りの二本はあなたがお持ちください。わたしどもの分析結果に不満があれば、あなたの二本をお好きなところへ分析にだしなさい。これで公平でしょう。立ち会いのカメラマンがいないのは残念ですが……」
 彼女が物静かに告げると山本もしかたなく引き下がりましたが、エリカたちは、どうして人魚の涙かどうかわかるのか、などと言い交わしています。

「この二本をヘリのパイロットに渡して、行き先はもう言ってあるから。慌てて瓶を落とさないように」と、「パワー・ショベル」が口癖の元気なお兄さんを呼び寄せて手渡します。
「分析結果が出るまでには、三、四時間……もっと掛かるかも知れませんから門前でお待ちください」とだけ言って立ち去りました。
 彼女の背後で、山本がどこでどういう分析をするんだ三時間も待てない、などと文句をまくしたてていますが、聞く耳をもちませんでした。エリカの鉄鞭が床を打つ音が何度かすると、彼は口をつぐみ広口瓶と魔法瓶を抱えてそそくさと引き上げていきました。

 蛸薬師小路の敷地から出て来た山本は、遠くに停めた選挙カーの中で静かに四時間が過ぎるのを待っています。そこから数百メートル離れたところに、あの政界の黒幕の恐るべき老人がいることを意識しました。
 彼にはある記憶が蘇ってくるのでした。廊下の薄暗い片隅で、顔を近づけ声を潜めながらも大きな身振りをして大物政治家同士が噂話をしているのを垣間見た記憶です。先輩政治家が、この館の老人の噂を恐る恐るしている情景です。
 また、中学生の頃、彼の父親が総理大臣に就いていた頃、いくどもこの館を密かに訪れていたことも思い出しました。父親は蛸薬師小路の姓やこの場所を口にしたことはありませんが、家に出入りしている地元秘書たちが雑談の中で喋っているのを耳にしたこともありました。……『大和の老人』と。

 あの老人の言動はこの数ヶ月耳にはいってきませんが、その沈黙が却って不気味でした。数時間前にあの老人の従業員たちの慇懃無礼と暴力的な対応は、すべてあの老人の緻密な計算ずくの差し金に違いない、と今は信じています。若手政治家の山本の政治家生命を、この一件で絶ち、そのうえ近年はあの老人を軽んじている父親に警告したのではないか、とも深読みしました。桃子の可愛さと美しさに心を奪われたことが、大きな転落への発端だった、自分は愚かだったかも知れない、と珍しく――たぶん小学二年生の夏以来――反省していました。と同時に求婚者として名乗りを上げたあと四人の老人たちに、桃子をみすみす奪われてしまうのも業腹でした。この二つの考えに彼は引きされていて、時間が経つのを忘れてしまっています。

 そのうち、蛸薬師小路邸の小高い丘陵の向こうでヘリの回転翼の騒音がどんより低く垂れ込めた梅雨雲に反響しているのが聞こえ出しました。数分後には正門の門番をしているヒロコーとか呼ばれている巨体の男が、選挙カーに向かって手招きをしているのに山本は気づきました。
 彼は長時間、あの老人に怯え、反省もしていたこともすっかり忘れてしまって、「人魚の涙」は本物であるから桃子との面会資格を間違いなく手に入れられる、やっとその時が来たのだ、と奮い立ちました。

(つづく)

(参考)広口瓶

本文に出てくる広口瓶のイメージです。正式名称、商品名はしりません。


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