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MIMMIのサーガあるいは年代記 ―48―


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    第 四 章
    王の帰還(8)
    かなしいほどお天気

「お爺さんは桃子にノーベル物理学賞の夢を語るけど、わたしはどっちでもいいと思う。桃子ならとれるかもしれないけど、そのあとはどうなるの? お爺さんは考えたのかしら。
「わたしはむしろ、お爺さんとわたしが築いたこの王国、いや帝国を譲りたいと思ってるの。その方が展望あると思うわよ。お爺さんとわたしの帝国は、領地はちっぽけで、この眺望の中の芥子粒のようなものだけど、桃子の才能ならいくらでも大きくすることができる。
「……でも……、ほんとうは桃子に、わたしたちが勝手に夢みる将来にこだわらず自分の考えで夢を紡ぎあげ、それに向かって大きく羽ばたいて欲しいの。たとえ失敗しても、絶望しても、それでいいじゃない? とにかく桃子らしく生きて欲しい。それがいまのわたしの希望よ」

 お婆さんは、横に並んでひたすら涙を堪えている桃子に視線を移すと、麦藁帽子むぎわらぼうしを脱いで桃子にかぶせました。
「傷口はまだ痛むの? こう暑いと汗がしみるわよ。かぶっていなさい」
「お婆さんはどうするの?」
「ゴンザレスたちと一緒にいるわ」
「危ないでしょう」
「大丈夫よ。ビルの中にちゃんと秘密のパニック・ルームを用意してるわ。
 第一、これから起こる闘いを彼らだけに委せておけない。彼らは戦闘のテクノクラートに過ぎないの。専門分野のことはよく知ってるけど、ただそれだけのこと。昔のイギリスかフランスの政治家の言葉に、たしかこんなのがあった。『戦争は軍人だけに任せるには大事すぎる』とかなんとか。これ至言だと思う」

「絶対やめて。地下防空壕にじっと隠れるの。お願い」桃子は言いよどみながら懇願しました。
 お婆さんは、ゆっくりと首を横に振ります。
「オフィーリアとホセを亡くしたのよ。もう親しい人が奪い取られるのは耐えられない」
 こう言って桃子は、オフィーリアの形見の指環を示しました。
「なのに、エリカとナナミンときたら……」と、桃子は二人の薄情をつい口走っていました。

 お婆さんは、オフィーリアの形見を手に取り、西陽に透かしてじっと見入りました。その時間が余り永いので、桃子は理由が分からぬ不安になりました。
「それは違うと思う。桃子の思い違いよ」お婆さんは、指環に頬ずりしてそっと返します。

「二人は桃子以上に悲しみ、自己犠牲を目の前にした自分を責め立てている筈よ。あの三人を面接して採用したのはわたしよ。経歴も聞いたし、徹底した背景調査もしたの。だから判るの。
「あの三人は元軍人、それもとても優秀で実戦経験も豊富だった。エリカなんて英国サンドハースト王立陸軍士官学校卒業。特殊部隊S.A.S(注1)初の女性士官、それも最年少。中東とアジアで決して公表されない秘密戦に従事。おおぜいの同僚を喪ったらしい。それに耐えられなくて退役し、警備会社でボディガードを半年ばかりしたの。でも、そこでもボディガード対象の女性を守るため同僚一人が死んだ、と言ってた。
「彼女が喪った戦友は友人、肉親以上にかけがえのない人たちだった、とも言ってたわね。そんな人たちをもう喪うのに耐えられないって。そうしてツテをたどってここへ来たの。ここなら戦闘で親しい人、愛する人を喪う心配がほとんどないと……。確かに、数日前まではいたって平和だったわ。危険があるとすれば、桃子のワガママくらい……」

 お婆さんは話がまた深刻になりそうなので、軽い冗談を付け加えて話をいったん区切ります。
「オフィーリアもナナミンも、同様の経歴を持ってた。そうしてここで、三人は姉妹のようになり、オフィーリアは自分の命を捧げて他人を守ったのだから。一番悲しんでいるのは、あの二人にちがいない。その悲しみを口にすることが怖く、口にすればまた新しく親しい人を失うかもしれない、と考えているの。だから、いま桃子が言った薄情そうな態度をとってるのよ。本心でなくて、隠しているの」

「本当にそうなの?」
「少しはあたってると思う。今わたしが言った以上に悲しみ、自分を苛んでいる筈。人の心は複雑で難しいの。量子力学より理解不能なのかもしれない」
 お婆さんは言葉の最後に、これまで重ねてきた人生から得た叡智のようなことを付け加えました。
 桃子はこのお婆さんの説明をじっと考え込み、オフィーリアの指環を強く握りしめていました。それは爪先が掌に食い込むほどでした。

「それから、桃子は武器を決して執ってはいけません。地下防空壕の中で、避難する従業員がパニックになるのを防いで欲しいの。住み込み従業員の家族には子供もたくさんいるから、彼らの気持ちを和ませて、勇気づけて欲しいの。彼らに誰一人も傷ついて欲しくない。それは、お爺さんやわたしの代わりに桃子しかできないことで、武器を執って闘うことより大切なことだと分かるでしょう。自分の命を投げ出してあなたたちを守ったオフィーリアやホセだって、それを望んだに違いないわ。わかった桃子」
 お婆さんの言葉は、都合のいい理由付けだと一瞬批難したものの、断れない説得でした。ようやく黙ってこっくりとうなずきました。

 お婆さんは、桃子の同意に気を払わないようなそぶりで、『ひこうき雲』の第一節を静かに口ずさみ、同じところをリフレインします。
 桃子は、この曲をもう一度聴くと、ついさっきまで耐え忍んでいた涙が溢れ、それを隠すために麦藁帽子むぎわらぼうし目深めぶかにかぶりなおしました。お婆さんと二人っきりで話をするのは、これが最後になってしまうのではないか、と不吉な予感がしたからです。お婆さんの歌い方には、そのような離別の哀しみが充ちていました。

「さあ戻るわよ。エリカやゴンザレスが心配しているようだから」と、お婆さんはテントの方へ向き直りなおります。
 そこでは、エリカとナナミンがテントの日陰でゴンザレスと立ち話をしています。二人は迷彩服にヘルメット、ボディアーマー、ハーフブーツに身を固め、肩からH&KのMP-8を吊していました。ナナミンは余分なボディアーマーとヘルメットと靴を抱え持っています。きっと桃子の分を持参したのでしょう。彼女はいま、自分がサンダルにパジャマ姿であることを、あらためて知りました。
 その天幕の日陰は涼しげでした。

 (つづくでよぉ)

 (注1) https://ja.wikipedia.org/wiki/特殊空挺部隊


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