あちらとこちら、夢のまた夢 #月刊撚り糸
僕から見て、彼女はいつも『あちらに行ってしまいそう』な人だった。あちらってどこかだなんて訊かれても答えられない。とにかく、ここじゃない、もう二度と会えない、そんなところだ。
はじめて彼女に会ったのは、僕が新卒で入った会社を燃え尽き症候群で辞めたばかりのころだった。もうなにもやる気がしなくて、なにもできる気がしなくて、残業のおかげで貯まる一方だったお金を頼りにひたすらぶらぶらしていた。食べることにだけはやる気を見出せたから、その日も僕はずっと気になっていたお店に出向いた。
小さな洋食屋。外国の絵本に出てきそうな内装で、夢の中みたいな空間で、僕はナポリタンを頼んだ。郷愁の味。
彼女は、僕からひとつ空けた右側の席に座っていた。4つほど残った三角形のサンドイッチが乗った平皿が斜め向こうに押しやられていて、正面に広げたノートにちょっと背中を丸めてなにかを書き込んでいた。
その姿から感じた静謐さを、僕は忘れない。
ナポリタンを待つ間、僕は何もせずにひたすら彼女を見つめていた。けれど気づかれる気配は一切なくて、彼女はただただずっとペンを動かしていた。肩下まで流れる緩いウェーブのかかった髪。なめらかな横顔。白い肌。一心不乱といった様子は僕にとって懐かしいもので、それなのに僕の胸は一向に痛まなかった。
僕がナポリタンを食べて――ちなみにそれはとても美味しかった――食後の珈琲にとりかかっても、彼女は何かを書き続けていた。ページを捲る音が何度したことだろう。カップから珈琲が半分ほど減ったころ、ようやく彼女は顔を上げた。ぱたぱたぱた、と睫毛が上下する。くっと伸びをして、彼女はもうパサついたに違いないサンドイッチを手に取った。短く切られた、何も塗られていない爪が目につく。あまりに僕は見つめすぎたのだろう。不意に彼女がこちらを向いた。
その顔を構成するパーツは、どれもこれも大きくもなく小さくもなかった。良く言えば素朴で、悪く言えば凡庸な、そんな顔立ち。ほんのりと色で囲まれたアーモンド形の目が、きょとんとした表情を宿して僕を見ている。
僕はそのとき顔を逸らすべきだったのだろう。だが少しのブランクで僕の人間的な勘は狂ってしまっていて、僕は咄嗟に彼女の手元を指した。
「それ、パサついてませんか?」
彼女は瞳を柔らかくして、僕と右手に持ったサンドイッチを見比べてから微笑んだ。
「いいえ、まったく」
驚いたことに、これが彼女との初めての会話だった。
あれから少し話した僕と彼女は、同じタイミングで洋食屋を出て、並んで喫茶店に入った。ステンドグラスのような窓があってドライフラワーの飾られた、これまた絵本のような夢の中のような、そんなお店を彼女は選んだ。
彼女が珈琲を飲むと、柔らかい頬に睫毛の影が落ちた。それはきっと、先ほどまでずっと落ちていたものなのだろう。
僕と彼女は話をした。彼女は作家志望らしい。
「どんな物語を書くのですか?」
「えっ……と、そうですね。ファンタジーを」
そう言って少し戸惑うように笑った彼女を、覚えている。
それから僕たちは逢瀬を重ねた。ふわりと、紗が重なるように、月日を重ねた。その間に僕は新しい仕事を決めて働き始め、彼女はノートパソコンを購入した。
何度も会ったのに、彼女は僕の顔を見て戸惑ったように笑うのをやめなかった。いつもいつも、ふと気づくとあちら側に行ってしまっていそうで、僕はファンタジーを書く彼女の存在までもファンタジーにしないように、柘榴の実を食べさせなければならなかった。そうしないと、もう二度と会えなくなると確信していた。
3年の月日が経った。ファンタジー作家を夢見る彼女は、何度も何度も対極にある現実にぶつかって、やつれて荒んでいった。瞳は硬質な輝きを帯び、柔らかだった頬は強張るようになった。その隣で僕はずっと、柘榴の実を食べさせ続けた。あちらに行かないで、ここに居て。僕の願いはそれだけだった。
するとある日突然、本当に思いもかけないことに、彼女は消えた。あちこちに思い出の痕跡を残したまま、その姿だけがうしなわれた。
僕は彼女を探した。柘榴をあげたのに、それでもあちらに行ってしまうなんて信じられなくて。それでも彼女は見つからず、会うことは叶わないまま時間だけが無為に過ぎ、そしてまた3年の月日が経った。
僕は仕事を辞めては始め、また辞めて、やつれて荒んでいた。なにもやる気がしなくてなにもできる気がしなかった。けれどその日は、本を読むことにだけはやる気を見出せたから、本屋に行った。
そしてそこで、彼女を見つけた。
棚の手前に平積みされた書籍。硬い表紙を覆うカバーに、彼女の名前があった。彼女によく似合う静謐な名前、忘れがたい名前。誘われるまま手に取ってページを開いた。
驚いたことに、それはファンタジーではなかった。現代より少し前の時代を思わせる描写の中に生きている、ひとりの女性とその生涯だった。指が忙しなく動いて巻末を探す。
――私はずっと、ファンタジー作家になりたいと夢をみていました。
彼女の言葉で綴られるあとがき。
――その夢は叶わなかった。
――世界を創造するのはとても楽しかった。けれどそれはわたしだけの世界だったのです。
――いつかその世界を、みなさまにご紹介する機会があるかもしれません。
――けれど今は、わたしだから綴れる文章をもって、表現したいことがあります。
――ずっとみつづけていた夢は叶わなかったけれど、それでもわたしは今ここにいます。
――ここはたしかに、夢の続きです。
僕は泣かなかった。ずっとずっと探していた彼女を見つけたけれど、泣かなかった。ただ気づいた。
彼女に柘榴なんて、必要なかったのだ。あちらにいっていたのは僕であり、彼女はあちらにいったんじゃなくて変わっただけ。会えなくなったのではなく、あのときの彼女でなくなっただけ。
ずっとそれを認めたくなくて、過去の彼女を取り戻すべく必死に柘榴を与え続ける僕の檻から、彼女は次の夢へと羽ばたいたのだ。そうした彼女が今、夢の続きにいるのならば、僕はいったいなんの続きにいるのだろう。
僕は泣かず、そしてその本を買いもしないまま、僅かな疑念と見え隠れする答えを抱いて、ひとりきりの家へ帰った。
【完】