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留学生 ~ショートショート~

 私には恋人がいる。その恋人は、付き合って僅か1週間で海外留学に行ってしまったけれども。
 見送りの日、彼はぎりぎりまで群衆の中で私の手を握っていた。その温もりを残り香のようにして、私は何も変わらない毎日を過ごしている。


「櫻井さん?」
 アパートの廊下で、ひとりの男性に話しかけられた。このアパートは私の通う大学の学生が多く住んでいるところで、私はこの廊下の突き当りに部屋を借りている。声を掛けられたのは部屋に戻る途中だった。
「はい?」
 私の3つほど手前の部屋から出てきたその男性は、見かけたことはあっても話したことのない顔だった。なぜ私の名前を知っているのか、と訝しむも彼は人懐っこく微笑んだ。
「あ、急にすみません」
 話を聞いてみると、彼は私の恋人が留学していると教授から聞いて声をかけてきたようだ。以前アメリカに留学していて、そこで著書を出版したこともあるらしい。
「すごいですね」
 と、言うと、本当に気負いのない表情で首を振った。
「1冊だけですよ」
 彼はひどくあっさりとした性格で、功名心もない付き合いやすい人間だった。
 その日から私たちはよく会話をするようになった。


「由芽佳先輩、最近あの人と仲いいですよね」
 不意に私の部屋を訪れた後輩は、不貞腐れたような顔でそう言った。
「あの人?」
「この本の作者ですよ」
 そういって彼が見せたのは、なるほど最近よく会話する、元留学生の著書だった。後輩は彼との距離を縮めるべく対話を試みているのに、どうやら彼がつれない態度をとるらしい。
「1回留学したくらいでなんなんだよ。こんな本書くくらいなら何度も行けばいいのに」
 そう言う後輩は、もう何度もアメリカに留学している。その愚痴を聞きながら、私は何も言わず珈琲をすすった。


 先日、私のことを元留学生に話した教授に会う機会があった。この教授には、私も恋人も世話になっている。
 プランターの花に小さなじょうろで水をあげながら、教授は物憂げな表情をして呟くように言った。
「僕はどうもねえ。心配なんですよ」
「心配、ですか」
 私はレポートを片付けるべく文献に目を通しながら、会話を引き受けた。
「彼はもっと勉強してから留学に行くべきだったんじゃないでしょうか」
 この声音には本気の心配が滲んでいて、私は一瞬レポートから離れ、考え込んだ。結果、告げる。
「まあ、彼なら大丈夫なんじゃないですか」


 恋人は付き合って1週間で海外へ行ってしまったから、実質ほとんど恋人らしいことができていない。それでも、彼なら浮気の心配はないだろうと思う。
 彼はあの日最後まで私の手を握りしめていたし、今でも毎日メールのやりとりをしている。いつも、向こうでの生活を色々と書いて送ってくれるので楽しみだ。
 先ほど届いたメールでは、『こっちの女の人は胸が小さい』と報告があった。


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もっと膨らませられるような気もするので、この人たちで他にも書くかも、です。

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