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【番外編】日中を結んだ革命の父・孫文の故郷をゆく《広東省中山市》

日本でゴールデンウィークにあたる5月上旬。中国でも、労働節の大型連休を迎えます。ゼロコロナ政策を続ける中でコロナ感染が広がり、異様な警戒態勢が取られていた2022年の労働節。

そんな中、広州市のお隣、中山市まで赴き、革命の父・孫文の故郷を訪問してきました。今回は、その様子をレポートしたいと思います。

なお、内容は、個人的な意見や感想を交えて、個人が調べた範囲で掲載しておりますので、その点ご了承下さい。

1.コロナ禍における中国の大型連休

4月30日〜5月4日、中国は労働節の大型連休を迎えました。
コロナ前だと、空港も鉄道も高速道路も、そして有名な観光地は全て人で埋め尽くされていたような5月の大型連休なのですが、今年は様相が違います。

日本でも大々的に報道されている通り、ゼロコロナ政策を続ける中国において、オミクロン株が大規模流行し、上海をはじめとするいくつかの都市で、防疫措置として都市やエリア封鎖が行われました。

広州も、4月28日、広州白雲国際空港で常時行なっているスタッフへのPCR検査で、スタッフ数名が感染していることが判明。空港関係者や利用者の検査、立ち入り禁止措置などもあり、しばらく航空便の運休が続出。連休前に市内全域が騒然となりました。

こうした状況であったため、広州では、連休中には広東省外への旅行を控えるように呼びかけられていました。感染者が発生している地域からの渡航者の受け入れ措置については、それぞれの行政区によって異なっており、場合によっては数日間の隔離や、数日間の自宅での健康観察を求められます。

特に、学校などでは、休暇明けの登校について、休暇中の移動先やその後のPCR検査状況などを細かく報告させられ、場合によっては登校ができなくなる可能性もあることから、子供がいる家庭を中心に市外への旅行を控える雰囲気が広がっていました。

こうした中、広州市のお隣中山市にある「孫中山故居」を訪問してきました。前々から訪問してみたかった場所であることが一つ。このコロナ警戒体制の中で観光地の状況がどのようになっているかを見てみたい、という理由がもう一つです。

中山市には、広州南駅という高速鉄道のハブになっている駅を出発することになります。「孫中山故居」から最も近い駅は、広珠城際鉄路という路線の「南朗駅」。広州南駅からは1時間くらいの距離にあります。お目当ての「孫中山故居」は、そこから更にバスで15分くらいかかる場所にあります。

連休中の広州南駅の様子

なお、広州では高速鉄道に乗る際には、48時間以内のPCR検査で陰性であることが条件となります。検査が間に合わなかった人のために、駅の広いスペースが臨時の検査場に様変わりしていました。

利用者は、以前の連休時に比べても極端に少なく、車内は空席が目立ちます。また、到着した駅では、現地における防疫用の管理アプリに個人情報等を細く登録し、改めてPCR検査を受けることになります。万が一、陽性反応が出るようであれば、移動中に連絡がかかってくる仕組みです。

このような状況なので、連休休暇中にも関わらず「南朗駅」で下車する人は数える程度しかいません。利用者が少ないので、待ち合わせているタクシーも皆無で、バスも中々来ません。

当日は、雨ということもあり、連休中ということを疑うほど閑散とした状況の中、「孫中山故居」を見学してきました。

2.孫文と福岡

孫文は、中国では「孫中山」と呼ばれています。これは、孫文が日本に亡命している際に、「中山」という姓が気に入り、自ら「中山」と名乗るようになったと言われています。

中国では、孫文は「革命の父」として尊敬を集めており、こうした孫文を記念して、中国国内では、中山路、中山公園といった呼称が各地に残されています。さらに、孫文が生まれた「香山」という土地は、1925年に孫文が逝去すると、孫文を顕彰し、地名を「中山」に変更したのです。

孫文の一生は、波乱に満ちており、とても簡単に書き尽くせるものでもありません。ただ、日本に亡命していた期間も長かったため、日本との関わり数多く残されるのはよく知られているところでしょう。

特に、福岡の元藩士が結成した「玄洋社」とのつながりは深く、辛亥革命が実現する以前から、理想に燃える孫文の革命運動を「玄洋社」の面々が精神面、金銭面で支えていたと言われています。

こうした孫文と福岡人とのつながりは、世代を超えても残っていきました。

1913年、辛亥革命を成功させた後、孫文は国賓として日本を訪問します。その時、福岡に立ち寄った孫文は玄洋社を訪ねました。当時の玄洋社社長・進藤喜平太は、国賓としての孫文の来訪に対しても、いつもと変わらず、座布団もテーブルもない、ただ畳の上にお茶を置くだけのおもてなしをして孫文を喜ばせたということです。

そんな玄洋社は、戦後、GHQから極右団体として解散を命じられました。最後の社長は、進藤喜平太の息子・進藤一馬。そして、その進藤一馬こそが、1972年〜1986年まで福岡市長を務めた人物だったのです。進藤一馬は、幼い頃、孫文に実際に会って、頭を撫でられたことがあると話していたそうです。

進藤一馬市長が、福岡市の締結相手を孫文と関わりの深い「広州」とした背景。そして、今も続く両市の友好関係。それは、こうした福岡藩の元藩士たちからつながる中国との熱い絆の延長線上にある…、そのように感じずにはいられないのです。

1979年5月2日 福岡市と広州市は友好都市締結を行なった

3.孫文の故郷をゆく

孫文は、1866年11月12日、香山県翠亨村(現中山市)で生まれました。そして、1878年、12歳の時に、兄を頼ってハワイのホノルルへと移るまで、ここで暮らしていました。

中山市は、広州や仏山、珠海といった大都市に囲まれた中都市といった感じです。その中でも、この孫文の故郷・翠亨村は、その中山市中心部から少し離れたところに位置しています。

バスで孫文の故居までくると、一角は大きなテーマパークのようになっています。どうやら故居の周辺の広大なエリアに孫文ゆかりの建物などを再現した映画村のような施設ができているようです。流石にこれには食指が動かず、今回はパスします。

孫中山故郷旅遊エリア 地図で伝わらないほどに広い

そして、実際の孫文の故居ですが、ここだけでも十分に大きなスペースが取られた施設に整備されており、入口では宋慶齢が書いた「中山故居公園」という文字が出迎えてくれます。

ただ、施設内は大きく分けると、①孫文の故居、②孫文記念館、③村ごと観光施設、という感じになっています。真剣に見て回ると、全く時間が足りないほどの広さ。

孫中山故居記念館の入り口

入場後は、早速、1番のメインである「孫文の故居」に足を向けます。早速、ピンク色の建物が現れます。「孫中山故居」と書かれているので、これが孫文の故居なのでしょう。夢中で写真を撮ります。

孫中山の故居

しかし、解説をよく見ると、「1913年後、孫家はこの部屋を取り壊した」とあります。なんと、はるばる見に来た孫文の故居は、90年代に再現されたもので、むしろ最近建てられたものでした。残念!

しかも、新しい建物なのに、中は写真撮影が禁止。孫文が使用したというベッドなどが置かれていますが、係員に詳しいことを聞いても、面倒臭そうな感じで適当に対応されます。そんな感じで、観光のメインディッシュ部分は一瞬で終了しました。

「1913年後、孫家はこの部屋を取り壊した」

それなら…、と、故居周辺の③村ごと観光施設部分に移ります。かつての建物をいくつも再現し、それぞれの建物の中に、当時の人々の生活が伝わるような家具や生活用品が置かれています。

…が、これも、見ていると、どうも建物がきれい。恐らく、当時の建物は老朽化していたのか、他の要因があったのか、一度壊されてしまったのではないかと思います。もしくは、大きく手を入れたのか…。いずれにせよ、建物自体の清潔感が、逆に当時の雰囲気を伝えるのを邪魔しており、なんとなく「これじゃない感」がしてきます。

当時の生活を再現
雰囲気は悪くないのだが…
どことなく漂う、これじゃない感…

最後は、敷地内にある「孫中山記念館」に入ります。しかし、ここがまた広い。入り口から入った先で孫文の銅像が迎えてくれて、それをぐるっと囲むように展示が広がっています。

もちろん、孫文の生い立ちから、彼が駆け抜けた激動の人生、そして、その影響に至るまで丁寧に展示されています。ただ、全体的に写真展示が多め。内容的には、広州に点在する孫文関係の記念館でも見かけるようなお馴染みの写真が並んでいます。

また、個人的に最も興味がある日本滞在中の逸話や友人たちとの画像などは、当然、日本に残されているものの方が豊富で、こちらでは、ほぼほぼ「宮崎滔天」一人に集約されてしまっています。これは、その後の歴史などを考えても、止むを得ない部分なのかもしれません。

孫中山記念館
孫文が出迎えてくれます
左下の写真に宮崎滔天が写っています

ところで「コロナ警戒体制の中で観光地の状況」ということですが、少なくとも孫中山故居は閑散として、人影がまばらな状況でした。労働節の大型連休なのに、平日なのに間違って来てしまったのかと感じてしまうほど…。雨が降って、寒い日だったというのもあると思いますが。こういう状況を見ると、やはり早くコロナが終息して、気兼ねなく観光地に来れるようになって欲しいものだ、と感じます。

雨も降っていて人の気配がない施設内

ということで、今回は、中山市にある「孫中山故居」の様子をレポートしました。色々と書いていますが、実は、今回の旅には非常に満足しています。孫文の人生の出発点として、彼がどのような環境で育って、どのような想いを抱いてきたのか…、という想像を掻き立てられるには十分な場所でした。

交通が不便だったことや、人の気配がなかったことが、逆に、それだけ辺鄙な土地で育った孫文、という部分を実感させてくれます。ここから、中国をひっくり返すような革命を起こしていくのだから、やはり歴史はダイナミックだと思います。

ただ、そんなロマンを感じられるような人でなければ…、やはり多少の「これじゃない感」は覚悟した方が良さそうです。

《 ライチ局長の勝手にチャイナ!vol.25 》

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