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公教育は「平等」であって、「公平」ではない

こんにちは、ヨウです。


今回は、公教育についてお話しさせていただきます。公教育とは、「義務教育に位置付けられた公的教育機関」を指したもので、主に小学校、中学校を指したものとしたいと思います。


それでは、どうぞ。



公教育は平等に与えられる

まず、公教育は、読んで字のごとく、公に与えられるものです。同じ学校に通っていたら、全員が一律同じ内容の授業を受けることができます。

私は、小学校で学校の先生として勤務していました。その中でも、「全員が同じ内容について考え、同じ進度で進める」ということは絶対条件でした。能力がある子でも、勉強が苦手な子でも、一つの授業内容がきちんと全員に行き届くように意識をして授業を実施していました。


私以外の教員はどのように考えているかは分かりませんが、おそらく、教員は全員が同じ到達点までたどり着くように意識をしています。そういう意味では、全員が平等に教育を受けていると言えるでしょう。



「平等」であるが故の弊害

しかし、平等に与えるということは、それに家庭環境や経済格差などは考慮されないことになります。

例えば、教科書を見ればほぼほぼ学習内容が理解できる子どもがいたとします。この子は、一つの内容を45分かけて学ぶより、教科書を読んでアウトプットする作業を5分ほどすれば、十分です。持て余した時間は、姿勢を正して、先生が話している内容をノートに書いたり、友達の発表を聞いたりすることに注力しています。つまり、理解しているのに、足並みをそろえるために無駄な時間を費やしているのです。

逆に、45分かけて真面目に授業を聞いて、発表したりノートを取ったりしても、理解が難しい子もいます。どれだけ時間がかかっても、時間は決められており、45分で理解できていなくても、学習内容は進んでいく。結果的に、置いてけぼりにされてしまうのです。



「平等」であると「公平」でなくなる

皆さんご周知のとおり、家庭の経済力と子どもの学力には強い相関関係があります。家庭が経済的に充足していればしているほど、子どもの学力は上がるのです。

こうなってくると、平等に与えられる「授業」は、一方では「わかっているのに時間がかかる授業」、もう一方では「意味わからないのに進んでいく授業」になってしまうのです。これは、公平ではありませんよね。

この「不公平さ」が、貧困の連鎖を生んでいるのです。


学力が高ければ、収入の多い仕事をする可能性が上がります。できることが多いのですから、自分のしたいことを選ぶことができます。学力が低い子は、できる仕事が限られるため、適切な職業に就く可能性が下がります。

平等に与えている教育によって、格差が広がってしまっているのです。



子どもの「二極化」

これは、私の体感でしかないのですが、子どもの能力は二極化してきています。

どういうことかというと、「何でもできる子」と「何もできない子」が増えているということです。


現代は、小学生で塾に通っている子どもは珍しくありません。そのほかにも、習字、スイミング、ピアノ、バレエ、体操等々、いろいろな習い事をしていることがあります。しかし、それは、家庭に経済力があって、子どもに教育費を費やせる余力があるからできることです。収入が多く、学歴がある方は、「子育ては大切である」ということを理解していますから、子どもに思う存分投資します。運動も勉強も、公教育以外のプラスアルファの教育をしているのです。

一方、貧困家庭はどうでしょうか。塾に入れるにしても、スポーツを習わせるにも、お金がかかります。日々の生活でカツカツなのに、子どもにプラスアルファの教育投資ができるでしょうか? 仮に、その子自身に能力が備わっていたとしても、それを強化する教育プログラムは組まれることはなく、宝の持ち腐れで終わってしまいます。「学校で勉強しているから大丈夫。先生の言うことを聞いておけ。」となって終了。その子の才能が開花することはないでしょう。自分自身で学び続けて、卓越した能力を手に入れる子もいますが、そうなる子は一握り。

運動だけが得意な子もいますが、今は「外で自由に遊んでおいで」という時代ではありません。少子化によって大切な子どもを守るため、多くの家庭では「家で遊べるもの」を与えることが多くなってきています。運動機能や体力を鍛えるのにも、基本的には習い事をする、又は親が時間をかけて面倒を見ることが前提です。経済的に困窮している家庭の多くは、お金もなければ時間的余裕もありません。


こういった現状から、学校現場では、「運動も勉強もできる子」と「運動も勉強もできない子」に二極化してきているのです。



「二極化」している子どもたちに「平等」を与えると…

「何でもできる子」と「何もできない子」ばかりが集まる学校で行われる授業は、基本的にその中間を狙っています。つまり、子どもたちは、全体の平均的なレベルで教育されるわけです。

学校では、二極化が進み、平均的な能力の子が圧倒的に少なくなっています。ということは、学校で平等に与えられている授業内容は、二極化する子のどちらにも適切でない形で実施されるのです。


誰にも適切なレベルでない授業をされたところで、効果的だとは言えません。

これが、「平等」の弊害なのです。



終わりに ~公教育は「公平」がいい~

日本の学校は、不登校であろうが勉強ができなかろうが、絶対進級することができます。平等であるがゆえに、時間を無駄にしている子もいれば、社会に必要な能力すら身につかない子もいるのです。


全ての子どもが社会でしっかりと歩むことができるようにするためには、子どもの能力に合わせて公教育を注ぎ込む必要があります。


例えば、基本的な読解や計算など、学習指導要領に則った内容が理解できているかどうかのテストを実施し、その到達度に合わせて、進級するかどうかを決定することができるようにするのは、いかがでしょうか。

勉強が得意な子は、理解したら退出OK。苦手な子には、教員が懇切丁寧に教えていく。目的の学習内容が達成できたかどうかで、進級を決めるのです。そうすれば、できる子はさっさと義務教育を卒業でき、早い段階で社会に役立つ人間になることができます。苦手な子は、十分に力をつけてから社会に出ることができます。これって、いいと思いませんか?


ただ、この制度で進めていくためには、「集団と違う人間を排除しようとする日本的文化」をひっくり返さなければなりませんが…。この制度によって、上下関係がはっきりして、経済的に優遇されている人が、それ以外を見下す、みたいな現状になりかねず、いじめを助長しそうな気もします…。

あと、この制度を逆手にとって、「到達度テストの攻略法!」みたいな教材で莫大な利益を上げようとする人も出てきそうですが…。


提案しておいて、結局日本の文化には、今の教育の形がベストなのかな…と思ってしまいます。

等しく教育機会を与えつつ、個々の能力をしっかりと伸ばすのには、どういう方法が良いのでしょうか?


いずれにしても、教育について考えていくことは大切だと思うので、今後もまた、教育に関することを記事にしたいと思います。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。



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