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教員なんて、誰がなったっていい

こんにちは、ヨウです。

今回は、学校の先生について書いていきたいと思います。


あなたは「学校の先生」って、どんな人がなるものだと思いますか?


学校の先生にもいろんな人がいます。勉強が大好きな先生、運同神経抜群な先生、絵が上手な先生、ピアノが上手な先生、見た目が怖くて話しかけづらい先生、優しくて穏やかな先生、とても厳しくて細かいことをうるさく言ってくる先生…。

そんな先生について、私は「教員は、誰でもなれるよ!」と言いたくてこの記事を書きます。「教員のレベルが低いって話?」と、なんだかネガティブなイメージが感じられますよね? でも、実はそうではありません。誰でもなれるようになった方がいい、という話なのです。


※今回の記事の「先生」は、小中学校の「義務教育学校の教員」として書かせていただきます。


教員になるためには

そもそもですが、教員になるためには、「教員免許」が必要です。

大学や短大で必要な科目の単位を取り、実習に行けば、教員免許は取ることができます。ちなみに、通信大学で免許を取得することもできます。

進学校に在学している子や、その親は理解していると思いますが、教員免許を取ることができる大学の偏差値は大したことありません。センターで7割くらい取れるくらいの能力があれば、大抵どの教育学部でも通ります。また、私学でも教員免許の取得ができる大学はかなり多いので、教員免許を取ること自体は楽勝です。


教員免許をもって、自治体が毎年実施している「教員採用試験」に合格すれば、晴れて学校の先生になることができます。

ちなみに、正規職員になれなくても、「講師登録」というものをすれば、産休や育休、病休の先生の代わりに非正規で学校の先生をすることもできます。この場合の多くは、1年という短期契約がほとんどです。この仕事に関しても、教員自体、人手不足な業界なので、すぐに仕事が舞い込んでくるでしょう。



教員の個性はそれぞれ

教員は、授業の進め方や教え方、考え方に至るまで、それぞれがそれぞれの意見を持っています。

例えば、漢字を学習しているとします。ある先生は、書き順、とめ、はね、はらいに至るまで厳しく指導します。しかし、隣のクラスでは、「覚えられればいい」みたいな先生がいたりします。

また、音楽の授業でいえば、去年まで担任の先生がピアノを弾いて旋律や音の高低を丁寧に教えてくれていたのに、担任が変わって、CDポチっとして「さあ歌え!声が大きければいい!」みたいな先生に変わったこと、ありませんか?

学校の先生も人間ですから、個性があります。全教科教えることができても、その中に得意不得意があります。また、人間性に関しても、尊敬できる先生もいれば、「ん?」と思ってしまう先生もいます。これは現実です。


教員には教員の色があります。これは自治体が指導する程度では変わらないのです。もちろん、自治体も「教員には個性がある」と認識したうえで採用しているでしょうからね。



人には「合う」「合わない」がある

そもそも、人と人との関係には「相性」が存在します。これは、大人同士だけではなく、大人と子どもの関係においても同様です。

例えば、集団生活に重きを置き、「合わせること」について厳しく指導する先生がいたとします。やんちゃでいたずらばかりする子どもたちにとっては、厳しく躾てくれる先生がいることは、保護者にとってはありがたいことでしょう。一方で、自分できちんと勉強ができ、自由に発想を飛ばそうとする子どもにとっては窮屈に感じます。

逆に、自主性を大切にする先生は、「自分で考えて物事を進めたい子」にとってはかなり嬉しいのですが、自分で考えることが苦手な子にとっては、とても苦痛になってしまいます。「理屈はいいから、わかりやすく教えてくれよ。」と。

また、共同的に学ぶことに重きを置いている先生がいたとします(←最近の流行です)。そうなると、勉強が苦手な子や、一緒に勉強を教える子にとってはかなりのメリットがありますが、「手を挙げて発表したい子」のような、今まで優等生として扱われていた子にとっては不服に感じます。


このように、どんな教え方にもメリットデメリットがあって、尚且つ、子どもにとっても「合う・合わない」が出てきます。先生に個性があるならば、こうなってしまうのが常なのです。



いろんな人から教えてもらうメリット

正直、私は学生時代「義務教育なんだから、みんな同じように教えてくれよ!」と思っていました。「勉強の教え方が人によって違ったら、平等じゃなくなるし、良い先生に当たった人が得をするじゃないか!」と不平がありました。わかりやすい先生の授業を動画にして、それを流してくれれば、それでよくない? と思っていました。(今でもたまにそう思うときがありますが。笑)

しかし、先述したように、人と人には「合う・合わない」があるので、その動画に合わない人がいれば、それは義務教育から外れてしまいます。


いろんな人と関わり、その中で、「この先生の教え方は分かりやすいなあ」「この先生の考え方は尊敬できるなあ」と子ども自身が思うことが大切です。それを判別できるようになるためにも、いろんな先生から教えてもらえる方がいいのです。

実際、社会に出ると、人によって「合う・合わない」があります。そして、合わない人とも仕事をしなければならない時がやってくるものです。ネットで関わる中でも、(ブロックすればいいのに…と思っちゃうような)合わない人同士が白熱した議論を繰り広げている(又は勝手に突っかかっている)場面に遭遇します。世の中なんて、合わない人の塊みたいなものです。自分に合う人なんて一握り。合う人が多ければ、日本の離婚率が35%なんて数字は出ないでしょう。(飛躍しすぎか。笑)



誰が教員になっても、子どもは学ぶ

若干脱線した感が否めませんが、まとめます。

どれだけ頭がいい人が教員になっても、いい加減な人が教員になっても、子どもにはそれぞれ「合う・合わない」があります。だったら、もっと多様な人を教員としてお招きした方がいいのです。


普通の家庭で育ち、普通に大学に行って、普通に教員になるのも良い。

この前まで駅前でラーメン屋の店長をしてました! みたいな先生も面白い。

「先生は無一文になってホームレスをしたことがあってね…」なんて最高じゃないですか!


教員免許を取っていて、採用試験に合格したなら、どんな人が教員になってもいいのです。「教員だから、誠実でないと」とか「教員なんだから、字が上手じゃないと」とか「教員なんだから、ピアノくらい弾けないと」とか、そんな固定観念は必要ありません。いろんな経歴を駆使して子どもに「人生のスパイス」を与えられる方なら、どんな方でも教員になってほしいと思います。

もちろん、大前提として学習指導要領に則った授業はしなければなりませんし、授業のプロになれるような努力は必要です。でも、それさえクリアしていれば、「教員」という仕事は成り立ちますし、ハチャメチャな人生を送っていても「先生」になることはできるのです。



終わりに ~「先生」は、子どもが決めるもの~

多くの子どもは、誰かしら大人の姿を見て成長します。そして、その中から尊敬できる大人を選んで学ぼうとします。

子どもは、常に学び続ける生き物です。大人の何倍も人間の言動を観察しています。そして、良いことも悪いことも含めて学び続けます。


教員は、あくまで「教える仕事をする人」であって、「子どもの先生」ではありません。学校と言う教育機関に勤めるサラリーマンでしかないのです。

そんな教員を「先生なんだから、尊敬しなさい」と親が言ってやる必要はありません。また、親が「あの先生を信用してはいけない」と個人の感覚を押し付けてもいけません。

子どもは勝手に「自分にとっての先生」を選びます。子どもがいろんな人と出会い、自分にとっての「先生」を見つけることができれば十分なのです。


教員として働く際には、私は、「先生」だと子どもから思ってもらえるような人間を目指したいと思っています。


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