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【Educcusionレポート】 始まりの道草、突然の偶然

「エデュカッション」は、ラーン・バイ・クリエーションのワークショップ・デザインチームが企画するオンライン教育会議。世代やハンディを超えて集まった人々が、同じひとつのテーマを巡って自由に語り合います。6月21日(日)に開かれた第3回のテーマは「道草」。会議の様子を、初回から参加している学生ライター高校1年生の上田慶くんがレポートしてくれました。どんな話し合いが行われ、そこから何を感じたのか。「道草」という抽象度の高いテーマから導き出された深い考察に、ぜひ触れてみてください。

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始まりの道草、突然の偶然


こんにちは。エデュカッション高校生ボランティアライターの上田慶です。
今回のエデュカッションは「道草」というテーマのもとで話が進められました。
この記事は前回と同じようにこの会の振り返りと僕自身が考えたことをお伝えするものになります。
テーマの抽象度が高く話の内容もとても難しかったので、この記事も読みづらい部分があるかもしれませんが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。

さて、まずは前回の記事と同じように皆さんに質問をするところから始めたいと思います。
一度考えてみてください。「道草」というものについて。


皆さんにとって、道草とはどういったものでしょうか?

きっとまず思い浮かべるのは「学校や塾からの帰りに寄り道をする」というものだと思います。
とても具体的で、実際に経験したことがある方も多いのではないでしょうか。
知らない道を歩いてみたり、途中にある公園で遊んでみたり、とにかく自分の思ったままに動く。
家に帰ったら「どこで道草食ってたんだ」なんて怒られたりしますよね。
なかなか道草をゆるす家庭というのはないでしょう。
帰る時間が遅くなりますし、それだけ何かに巻き込まれる危険性が高くなってしまう。

そうなんです。
「道草」は自由な行動が許されているからこそリスクが伴う。

何事にも自分で責任をとれない小学生は、そのリスクを親に預けられていたからこそ「道草」ができた。

今の皆さんはどうでしょうか。

自分の行動に自分で責任を取ることができるはずです。
だからこそ馬鹿な真似はなるべくしないようにする。
誰にも迷惑をかけないように、自分が傷つかないように。

でも、みなさんは気づかないうちに自然と「道草」を食っているんです。
自分の本来の欲望に従って、本当にやりたいことに引っ張られて、今の環境にいるんです。

少し僕の考えだけの話が続いてしまったので、グループで出た話も含めて改めて「道草」について考えていきたいと思います。

今回のエデュカッションも、2回のグループセッションを行いました。
その中で印象的だったのは、「道草」というのはもしかしたら「枝葉」に似ているのではないかという話です。

人生の幹というものがもしあるとすれば、その幹自体が伸びていくのは時間の経過を表し、木全体としての成長を表すには「道草」としての枝葉が必要なのだと。

この例に沿って考えれば、道草をしない=自分の本当にやりたいこと、ついやってしまうようなことを我慢するというのは、過剰に木の枝を切ってしまっているという状態にあたるのではないでしょか。

そうやって時間だけが過ぎて、振り返ってみれば見栄えのしないスカスカの木のまま最後を迎えてしまう。

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だから積極的に道草をしましょう、とは言いませんし、言えません。
他にも方法はあるはずだし、人によってその木をどう成長させていくかというのは違うと思います。

ただ、一つ言えるのは人生を豊かにするのは「道草」を食うような自由な行動であるということです。

自由というのは、「行動の理由が自分自身であること」だと思います。
環境の制約じゃない、誰かのためでもない、ただ自分のおもうままに動く。
まさに「道草を食う」というのは自由を表す最高の行為なのだと思います。

そしてもう一つ。
今の日本は、道草がしづらい。
高校生の自分は特にそう思ってしまいます。

リモート会議っぽいものを終えた母に「なんの会議?」と聞いて「んー、雑談」という答えが返ってきたときにはびっくりしました。
まだ自由が残っている大人もいるらしいと。

学校も授業の合間に友達と話したり、部活で好きなサッカーができたり、ある程度の自由は許されています。
先生が言うには校則はまだゆるい方だそうです。
でも、許されている範囲が狭すぎる。

少しでも道草をしようとすればすぐにその枝葉を切り落としてしまう。

木は見えている部分と根の部分は対称になるように育つと言われています。
根にこもった本当の思いに従って伸ばした枝葉は、今はすぐに切り落とされてしまう。

僕らには余白が足りない。

道草は不急だけど不要じゃないんです。

道草をしたくてするわけじゃないけど、それをするだけの時間と空間は残されているべきです。
それは高校生に限らず大人でもそうです。
ただ、誰かに望むのは甘えだと思います。
今までは誰か仕組みを変えてくれよと思っていたけれど、もう自分が変える・変わるしかないと思うようになりました。

最後に、僕がこの会の中でふと思いついたことを書いて終わりにしたいと思います。

「道草は、偶然のモンスターである」

突然訳のわからないことを書いてしまった感がありますが、これにはちゃんと理由があります。
モンスターという言葉の語源には、「何か災害のようなものが起こる前の予兆として現れるもの」という意味があるそうです。
道草が何か災害を引き起こすようなものであるということではありません。
道草をするかしないか、したくなるという時点で偶発性があるし、その道草がきっかけで何か予想もしなかったものに出会うかもしれない。
道草には二つの偶然が含まれているんです。
だから僕は、偶然のモンスターという言葉を思いついたんです。
この思いつきですら偶然ですからね。

この閃きのような、一瞬の感情や思いを大切にしていけば、自分自身びっくりするような展開が人生に訪れるでしょう。

このモンスターは、あなたのすぐそばにいます。
あとはあなたが手懐けるだけ。
きっとそのモンスターは素晴らしい景色をあなたに見せてくれるはずです。

街中でぼーっとふらふら歩いている170cmくらいの男子を見かけたら、「上田もああいう感じで道草食ってんだな」って思ってください。

そしてこの記事のこと、あなたの本当にしたいことを思い出してください。

それでは。


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文章
上田慶 |Learn by Creation ワークショップ・チーム 学生ライター

https://www.facebook.com/LearnXCreation/


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