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オンラインで対話型鑑賞をやってみた

Learn by Creation 2020 Online ワークショップデザインチーム(以下WSDチーム)内企画として、オンラインでの対話型鑑賞会を行いました。

対話型鑑賞とは、ニューヨーク近代美術館(MoMA)が教育プログラムとして開発した鑑賞法で、参加者全員が一つの作品をじっくりと鑑賞し、その後、決められた問いで自由に語り合うというものです。
今回は、WSDチーム井上が以前から子どもたちと行ってきた、オンラインで実施する利点を活かす独自のアイディアや手法を加えたオリジナルの対話型鑑賞を行いました。

Educussionライターボランティアの中高生も参加し、多世代で学び合う時間を共有することができました。
今回も、高校生ボランティアライターの上田慶くんが体験しての気づきを記事にしてくれましたので、ぜひご覧ください。


その一瞬に時間や思いを捧げる



「偉大な芸術家は、物事をあるがままに見たりしない。もしそうしたのなら、芸術家ではなくなっているのだ。」
これはオスカーワイルドの言葉だ。

初めてこの言葉を見たとき、僕は違和感を覚えた。
ゴッホはひまわりをあるがままに書いているように見えるし、今回参加した対話型鑑賞会で扱ったポールシニャックの絵もものすごく具体的だった。

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ただ、もう一つのピーテルブリューゲルの絵は宗教画のようで少し抽象的だった。

スクリーンショット 2020-07-25 12.08.31


それについては後で触れるとして、もう一度オスカーワイルドの言葉に戻って考える。

今回のイベントに参加するまで、現代で偉大な芸術家といわれている画家が描いた絵は、ものすごく具体的な内容を描いているように見えていた。
その画家自身が実際に見たであろう日常の一部が、そこに現れていると思っていた。

だが、今回のイベントを経てその考えは変わった。浅はかであったともいえる。

そもそも、日常の一部を切り取って絵にしようとしたとき、そこに何か動いているものが描かれていればその絵は物事をあるがままに映したものではないはずなのだ。
動いているのだから、それを動かないものとして一枚の紙に収めればその大きな動きの中の一瞬しか映せないはずだ。
例えば風に揺れる葉をみて美しいと思ったとき、それを動画に残して後から振り返るのは簡単だ。

現代の僕たちは動画で過去を振り返ることが可能なので、その手段に甘えてしまう。
動画にしないでも、すぐに写真を撮ってすぐにどこかへ共有しようとしたりする。
簡単に「絵」を残すことができるようになった反面、量だけが増えて自分がなぜその瞬間をとったのかが分からないものまで出てくるようになった。

近世でも現代でも、写真ではない、動画ではない「絵」としてなにかを残そうとすると膨大な時間を必要とする。
非効率的に見えても、その分その瞬間にかける思いも膨らんでいくのだ。
これは宗教画や社会風刺を目的としたような絵でも同じだ。
何かが起きて、その瞬間を絵にする場合。
何かが起きて、それに付随して自分の中で揺れ動いた感情を絵にする場合。
全て、絵は動きを止めてしまうがその分せき止められた画家の思いが見る側にあふれて届く。

僕はこの一連の流れが芸術なのだと思った。

「偉大な芸術家は、物事をあるがままに見たりしない。もしそうしたのなら、芸術家ではなくなっているのだ。」

かつてオスカーワイルドが言ったこのセリフは、物事を「絵」にするときの心構えのようなものを示しているように感じる。
そして、見る側にとってもこの絵は何かを映したものだと安易に考えるのではなく、その裏にある画家の思いをくみとるべきなのだという指摘をしているように思う。

簡単に何かを残すことができるようになったからこそ、その一瞬に時間を捧げること、思いを捧げることを、思い出さなければならないのかもしれない。

今回のイベントはそんなことを考えさせられるものだった。

文章
上田慶 |Learn by Creation ワークショップ・チーム 学生ライター

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一枚の絵画に深く集中し入り込むことができ、多様な視点を共有しあえ、対話後にはその絵に対する感情や思い入れが大きく変わる対話型鑑賞。
新しいものの見方を獲得するにも、リラックスするにも有効です。

このように、Learn by Creation WSDチームは、ボランティアスタッフ内でも積極的に学び合っています。
上田くん、深く豊かなレポートをありがとうございました。




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